あなたは大切な人です

主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

先手必勝はよい夫婦

2019年1月27日
和田一郎副牧師
ネヘミヤ記9章7~21節
コロサイの信徒への手紙3章18~19節

1、「主を信じる者にふさわしく」

コロサイの信徒への手紙の3章には、コロサイ教会の人々に向けて、使徒パウロのとても具体的な生活のすすめが書かれています。
今日の箇所は夫婦の問題です。ここに「主を信じる者にふさわしく」(18節)という言葉が置かれてあるとおり、信仰者としての夫婦の在り方をパウロはすすめているのです。

2、妻と夫

神様は結婚という不思議なものを人に与えられました。キリスト教会において、結婚は特別なものです。
今の世の中の価値観では、結婚は二人の問題とされます。結婚は二人が考え、二人が決め、二人の責任で営んでいくという価値観です。
しかし、聖書の価値観は、結婚は神様によって定められた関係だということです。神様がつくられた制度であり契約です。この結婚というのは、他人である二人が神様によって定められたものであるが故に、特別に強い関係となります。
イエス様は「神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない」(マルコ福音書10章9節)と言われ、結婚は「神が結び合わせてくださったもの」だと言われました。ですから、結婚の相手ということ、結婚生活というもの、それらは自分の知恵を越えた、神様の意志に沿って営まれていくという不思議さがあります。
旧約聖書の中の創世記には、結婚のことを「一体となる」という言葉で表現しています。「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2章24節)。
神様が造られたアダムという男は孤独だったので、「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。(創世記2章18節)と言われたのです。
神様はアダムを深い眠りにつかせて、寝ている間にアダムのあばら骨を一つとって、その骨でエバという女性を造られました。目を覚ましたアダムは、そこで、エバを見て「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女と呼ぼう、まさに男から取られたものだから」と、自分の分身であると気づくわけです。アダムは喜んでエバと結婚しました。
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2章24節)。つまり、神様は「一体」の男性をもとに男と女を造られ、男と女は結婚して、再びもとの「一体」になるとする、神様の業が結婚というものです。
結婚は神様からの祝福です。二人が一体となって成長する過程で、それぞれの人格が整えられていきます。ですから、結婚は二人の意志や二人の責任で完結するようなことではない、神の摂理なのです。
そうすると、夫婦はあらゆる人間関係の中で最も親密であり、そして夫婦以上に親密な関係があってはならないのです。
日本の男性は、社会との関係を重視する文化の中にあります。ですから、夫婦より仕事や世間との関係を優先する傾向があります。しかし、聖書に記されている価値観では、人間関係の中心はあくまでも夫婦です。家庭の中心も夫婦です。
子どもを中心とした親子関係が中心になってしまう家庭があるかも知れません。子育て中の家庭では、物理的にそうなってしまうことはあるでしょう。しかし、家庭の根幹をなすものは、神が「一体となる」とされた関係です。それは夫婦だけです。
これは、人とイエス様との関係とも重なります。人はイエス様を主と信じた時から「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)と、パウロが言ったように、キリストと一体となって生きることになります。しかし、その時点で一体性が完成するのではないのです。「成長していく」ということがあって、キリストとの関係が強められていく成長過程で人格も成長していくのです。
同じように、結婚も二人が一体性を深めていく中で、夫も妻もそれぞれが成長させられていくのです。
結婚生活を通して夫婦の一体性と、キリストとの一体性の両方が平行して成長していく、これこそ「主を信じる者にふさわしい」夫婦の在り方です。
コロサイ3章18節では「妻たちよ・・・夫に仕えなさい」と、妻は夫に仕えるように勧められています。この言葉にひっかかる女性もいるかと思います。しかし、それは夫が妻を思うように扱ってよいという意味ではありません。
聖書の中では、女性は大切に扱われています。十戒には「あなたの父を敬え」ではなく、「あなたの父と母を敬え」と、男女を平等に扱っています。
「妻たちよ、夫に仕えなさい」ということと、「夫たちよ、妻を愛しなさい」(19節)というように、一方だけではなくて相互に求められていることです。イエス様が仕えてくださったように、イエス様が愛してくださったように、私たちもそれに倣って互いに仕え、愛するように教えているのです。
その愛を具体的なかたちで、相手に伝えるコミュニケーションは大切です。夫婦のコミュニケーションだったら毎日やっているし、「あうん」で分かるという御夫婦や、言葉にしなくても十分に通じている、と思っている方もいるかも知れません。しかし、神様は愛を具体的に示してくださいました。神様は「言わなくても、私の愛は分かっているだろう」とか、「何もしないが、あなたのことは愛している」という愛の示し方をされませんでした。
旧約聖書には、アブラハムに対して、神様の方から先行して具体的に愛を示した出来事が書かれています。神様はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民にする」(創世記12:2)、そして「あなたの子孫に豊かな土地を与える」(7節)と言ったのですが、アブラハムにはいっこうに、子どもが与えられませんでした。
そこで「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」(創世記15:3)と言っています。アブラハムは、自分に子どもが与えられるとは信じられませんでした。
そこで、神様はアブラハムを外に連れ出し、アブラハムに空の星を見させるのです。そこには満天の星が輝いていました。神さまは「あなたの子孫はこのようになる。」と言われました。
神様は、アブラハムに子が与えられ、その子孫が増えるようになるという、神様の約束を信じることができないアブラハムに、具体的に空の星を見せて、わたしを信頼しなさいと、慈愛に満ちた言葉をかけるのです。
そこで、アブラハムは、自分がこの神様の愛の御手の中にあることを知り、「あなたの子孫はこのようになる」という神様の言葉を信じたのです。こうして、神様はそれを義と認められたのです。
アブラハムは、一所懸命に努力して、信仰を手に入れたのではなかったのです。神様がアブラハムを選び、召し出し、声をかけ、神様の言葉を信じることが出来ないアブラハムを、信じる者へと変えて下さった。それはすべて神様が先行して愛を示してくださったから変わったのです。
神様を信じられない、愛することができないアブラハムを、信じる者、神を愛する者へと変えてくださったのは、まず神様が愛を示してくださったからです。
この神様の愛は「恵み」だと思うのです。宗教改革者のマルチン・ルターは「恵みのみ」という言葉を残しました。
「恵みのみ」というのは、人間が良い行いをしたとか、人が神様を選んだのではない。むしろ、愛を受けるに値しない、ほんとうに罪深い存在であるにもかかわらず、神様の側から先行して救いの手を伸ばしてくださった。その神の「恵みのみ」とルターは言ったのです。
そして、先行する神の愛の中心にあるのがキリストの十字架の死です。
「わたしたちが、まだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ書5章8節)
まだ罪人であったのに、先行して愛を示してくださった。この十字架の愛に、私たちは倣う者でありたいのです。
今日はコロサイの信徒への手紙から、夫婦の関係を中心に考えてきましたが、聖書は、ギブアンドテイクのような、愛の示し方は教えていないのです。与えて、与えて、与え続けなさい、と言われるのです。
相手にしてもらうことを期待するのではなく、自分が相手のために与え続けるところに、真実な愛があります。夫婦の愛の示し方もこれに倣って、自分が犠牲を負うことがあっても、見返りがなくても、それでも妻に対して、夫に対して、先行して愛を示し続けるところに、夫婦の輝かしい神の祝福があることを覚えましょう。お祈りをします。