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主日共同の礼拝説教

愛することは信じること

2019年2月10日
松本雅弘牧師
ホセア書11章1~9節 ヨハネの手紙一 4章7~10節

Ⅰ.はじめに

ある会社の部長さんの話です。毎日仕事が終わると、部下を連れて飲み歩き、家には「今日は仕事で遅くなるから」と言っておく。そうやって遊んでいた部長さんが、次第に元気がなくなってきました。理由を訊くと、奥さんのことでした。
彼女は、旦那の「今日は仕事で遅くなる」という言葉を決して疑わず、信じ切っていました。そのことによって、彼は、とうとう夜遊びを辞めたのだそうです。「愛するとは信じること」と言われますが、今日は改めて「愛する」ということについて考えてみましょう。

Ⅱ.聖書が教える3つの「愛」とは

私たちは「愛する」という言葉を当たり前のように使います。音楽でも映画でも愛をテーマとしている曲や作品がとても多くありますが、「ふたりは愛し合っている」という場合の「愛」が、何を意味するかと言えば、「お互いのことが好き」ということでしょう。
しかし聖書が教える「愛する」にはもっと違ったニュアンスがあります。新約聖書では日本語で「愛」と翻訳される言葉は、実際には3種類の意味の言葉が使われています。「エロス」、「フィリア」、そして「アガペ」です。
「エロス」とは、私のニーズを満たしてくれる相手に対する愛。「フィリア」は、友達に抱く友情のようなものです。そして「アガペ」は、よく「神の愛」と言われますが、相手の出方やあり方に関わりなく、いつも相手を大切にする愛です。
今日の聖書箇所に出て来る「愛」という言葉は「アガペ」の愛です。主イエスは「敵を好きになりなさい」と言わずに、「敵を愛しなさい」と言われます。
「自分とそりの合わない人や、場合によっては、あなたを憎むような人に対しても、あなたがすることは、アガペの愛をもって接していくことですよ」と、主イエスは教えられたのです。
では「愛する」とはどういうことなのでしょう。「愛の賛歌」と呼ばれる、コリントの信徒への手紙一の13章には、「愛」が様々な言葉に言い換えられています。
例えば、4節から7節には、愛するということを「忍耐強い」と言い換えたり、「情け深く、ねたまない」ことが愛することであり、「自慢せず、高ぶらない」こと、「礼儀をわきまえる」ことも相手を愛する事であり、さらには、「自分の利益を求めず、いらだたないこと、恨みを抱いたりしないこと」が愛することなのだと言われています。そして、最後のところに「すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とまとめられていきます。
これが「愛」だ、と聖書は教えているのです。相手を信じること。今の時点では実際に明らかになっていないことでも、相手の可能性を信じて待つこと、これが聖書の教える愛です。

Ⅲ.愛は信じること

さて、私たちは人間関係で難しさを経験しない日はありません。〈なんであんな言い方をするのだろう…〉、〈なんであんな行動に出たのだろう…〉など、そのように考え始めたら、きりがないほどでしょう。
愛を働かせる以前に、まず自分が躓いてしまうのです。そんなことを考えながらイソップ物語の「北風と太陽」の話を思い出しました。北風と太陽がマントを羽織って歩いている男のマントを脱がせる競争をするお話です。
先ずは北風がトライします。マントを羽織って歩いている男に向かい冷たい北風を吹きつけます。すると寒いものですから、男はしっかりマントにしがみつき、決して脱ごうとしません。それに対して、太陽はどうしたかと言えば、温かな日差しをその男に送るのです。すると体の冷え切っていた男はいつの間にかマントを脱いでしまうという話です。
私たちは相手の羽織っているマントが気になります。その場合、マントは何かを象徴しています。例えば、その人の行動や考え方、態度だったり、勿論、服装やしぐさ等々です。そうした気になるマントを脱がせようとする試みとは、相手を変えようとする私の側からの働きかけと考えることが出来ます。
そして、私たちはともすると北風のように冷たい風を送り、強引にマントを脱がそうとするのです。しかし多くの場合失敗します。
相手は必死になってマントにしがみ付く。何故なら寒いからです。そうした事情で、彼はマントを羽織っているのです。
ですから周囲の人が寄ってたかって「おかしいから脱ぎなさい」と言っても、本人は寒いから着ているわけですから、寒さが改善されなければ、マントがいかに変でみすぼらしく見え、彼の取る行動がおかしく見えたとしても、本人は決して脱ごうとはしないでしょう。逆に、周囲が脱がそうとすればするほど、意固地になってマントにしがみ付くに違いない。そうせざるを得ない事情があるからです。
愛することが難しい相手である場合、つまり好きになれる理由を見つけることが難しいような場合、私から見て好ましくない物を取り除こうと、相手の言動を指摘したとしても、本人からすればそれは北風のやり方に過ぎないのです。かえって寒さを感じるだけでしょう。
ですから少し引いて、その人の事情を分かろうと努力をする。脱がそうとする努力ではなく、理解しようと努力をする。その背景や家庭環境などを理解しようとするのです。
すると不思議なことですが、その人に対しての、これまでの見方が少しずつ変わってくるでしょう。そしてもっと不思議なことに、その人に対して優しい気持ちになってくるのです。
礼拝で何度かお話しておりますが、変えることの出来ないものが2つある、と言われます。1つは、私たちが向き合っている相手、そしてもう1つは過去です。
でも、変えることの出来るものがある。それは相手に対する私の関わり方です。それを選び直すことは出来ます。寒いからマントを着ているのだ、と事情が分かれば、みすぼらしいマントに代わる何かを提供することが出来るかもしれません。あるいは太陽のように、全く違った方法で、その人の体を温めたり、心を温めることを一緒になって考えることもできるでしょう。
悲しいことですが、私たちの心は、相手を信じることよりも疑うことの方が得意なように思います。良い面を見つけるよりも欠点を探し出すことに長けています。ちょっとした噂がきっかけで、人間関係に亀裂が生じ、ほんの僅かな疑いが関係修復を不可能なまでにこじらせてしまうことも稀ではありません。

Ⅳ.それでもなお(Do it anyway)

この説教の準備をしながら、私の心に1つの詩が思い浮かびました。それはマザー・テレサの「それでもなお(Do it anyway)」という詩です。
人間はえてして、理不尽なことや訳のわからないことをし、自己中心的です。/それでもなお、赦しましょう。/あなたが親切にしても、下心があるからだと人はあなたを非難するかもしれません。それでもなお、親切にしましょう。/あなたが何かを立派に成し遂げると、偽りの友と本物の敵を得るでしょう。/それでもなお、しっかりと成し遂げましょう。/あなたが正直で裏表がないと、人はあなたを騙すでしょう。/それでもなお、正直で表裏なくあり続けましょう。/あなたが何年もかけて築いたものでも誰かが一晩のうちに壊すことができるでしょう。/それでもなお、築き続けましょう。/あなたが安らかな心と幸せを見つけると、人はあなたをねたむかもしれません。/それでもなお、幸せを手放さないように。/あなたが人のために今日したことを、明日になると人は忘れてしまうものです。/それでもなお、人のために尽くしましょう。/あなたが持っている最良のものを世界のために捧げましょう。/しかし、それはその必要を決して満たすことはできないでしょう。/それでもなお、あなたが得た最良のものを世界のために捧げましょう。/いいですか。つまるところはあなたと神さまの間の事柄なのです。決してあなたと人々との間のことではありません。
私たちが愛について考え、愛する人になることを祈り求める時に、私の側で出来ること、神さまを信じる者として、私の側で祈り求める恵みは何か、と言えば、まさに、この詩の最後でマザー・テレサが、私たちに言い聞かすようにして語る言葉、「いいですか。つまるところはあなたと神さまの間のことがらなのです。決してあなたと人々との間のことではありません」。
神さまの間の事柄として、私の周囲の人々とどう関わるか、それは、その人と私との間の事柄ではなく、マザー・テレサに言わせると、私と神さまの間の事柄なのだ、というのです。
聖書は「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(一ヨハネ4:19)と語り、神さまが私たちを愛し、私を信じてくれていると教えます。そのことを実感し、経験する時に、必ず私たちは人を愛する人、人を信じる人へと導かれて行くのです。それを、神と私の間の事柄として行っていく。ぜひ、そのことを心に留め、求め続けて行きたいと願います。
お祈りします。