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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

ペンテコステの恵みにあずかって -4世代が喜び集う教会

2019年2月17日
松本雅弘牧師

使徒言行録2章14~21節 エフェソの信徒への手紙4章14~16節

Ⅰ.「4世代が喜び集う教会」を求めて

前回、私たちがいただいている聖霊が、私たちの内で、また私たちの交わりの中で生き生きと働いていただくために、「祭司」として祈りを大切にし、「預言者」として御言葉に聴き、そして「王」として自分の人生を主体的に受け取っていくことの大切さについて学んだことです。
今日はエフェソの信徒への手紙から、自分の人生を、「王」として主体的に受け取っていくことについて、もう少し突っ込んで考えてみたいと思います。

Ⅱ.成長へのスタートを切り、歩み続ける

エフェソ書4章でパウロは、神の私たちに対する願いを説いています。それはクリスチャンとして成長するということです。
以前、高座教会の牧師をされていた生島陸伸先生は、「神さまは私たちをあるがまま、そのままの姿で愛してくださっている」と、本当に私たちの信仰にとっての基本中の基本を、繰り返し、繰り返し教えてくださいました。
そうした無条件の愛で愛されていることを実感すると、本当に不思議なのですが、私の心が喜びと感謝に満たされてくる。無条件の愛をもって、この私を大切にしてくださる神さまの愛に応えて生きていきたい、と思わされていきます。
それが、クリスチャンとして成長していくということです。誕生したばかりの赤ちゃんでも百パーセント人間ですが、同時に未成熟な人間として成長が期待されている存在でもあります。このことは、クリスチャンの生活にも当てはまる真理です。
ベトザタの池にいた人は38年もの間、ある意味「自らの病の犠牲者」として生きていました。主イエスは彼を知った上で「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(ヨハネ5:8)と言われました。そして彼は起き上がり、歩き出します。実は、そこで初めて、彼は自分の人生という長いマラソンレースのスタートラインに立ったのです。
以前の彼は「良くなりたいか」と訊かれても、周囲の人々の愛の無さを訴えるだけでした(ヨハネ5:6-7)。
主イエスにあって自分自身を引き受けて生きていない時、私たちは無い物ねだりをしがちになります。そして次第に人の欠点ばかりが気になり始めるのです。不思議です。何故そうなるのでしょうか。それは自分の人生に取り組んでいないからです。自分のことなのに、いつの間にか他人事のようになっているからです。
大リーグのイチロー選手が毎年2百本安打を記録していた頃、彼がそのために、普段からどれだけ真剣に取り組んでいるかを知り心打たれました。「2百本安打を打とう」としたら、そのことに集中します。他人をとやかく言う暇などないのです。
暇があると、わたしたちは無い物ねだりが始まり、自分のことを棚に上げ、周囲の欠点が気になり始めます。聖霊をいただき「王」として召されていることを忘れているからです。自分の人生を生きていないからです。
主にあって、私たちは世界で私にしか与えられていない固有の人生を生きるように召されています。与えられたいのちをキリストにあって生きていきます。ですからパウロは、「成長へのスタートを切ったら、それを歩み続ける」ようにと、「頭であるキリストに向かって成長していきます」(エフェソ4:15b)と教えています。
生命は条件さえ整えば自然に成長します。逆に成長が止まるということは滅びに一歩近づくことでもありますが、ここでパウロはクリスチャンがキリストに向かって成長していくために必要な2つの条件を語っています。
1つは14節。「もはや未熟な者ではなくなり」ということ。直訳すれば、「子どもであることを辞める」ということ。もう1つは15節、「あらゆる面で成長すること」です。
クリスチャンとして、キリストに似た愛の人として成長し続けるために必要なこと、その第1は「子どもであることを辞める」ことだ、とパウロは教えます。そして続けて「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく」(14節)と説いていきます。
つまり子どもであった時とはクリスチャンになる以前ということですから、パウロが「子どもであることを辞める」とは、言い換えれば「後ろを振り向かない。子ども時代を懐かしがらない」ということでしょう。
「出エジプト」を経験したイスラエルの民も、辛い経験をするたびにエジプトを懐かしがったことが出て来ます。「子どもであることを辞めて大人になる」とは、もう出エジプトをしたのだから、エジプトに逆戻りするのではなく、約束の地の方向に向かって旅を続けるということ。キリストを知らなかった頃の生活に別れを告げるということです。

Ⅲ.万事を益とする神に取り扱われて成長する

2つ目には、「あらゆる面において成長する」ことをパウロは説いていますが、言い換えれば、「バランスをもって成長する」ということです。
信仰の幼子の時、人のことを考えずただ自分の願いを祈ります。しかし大人になるに従って〈神の御心が一番よいのだ〉と分かって来て、心から「御心が成りますように」と祈ることが出来るようになるのです。
子どもが成長するためにはお菓子だけでは困ります。一般に苦手な食べ物と言われるピーマンやニンジンや玉ねぎを食べる必要があるでしょう。バランスよく成長していくためです。
ここでパウロは、「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長するために」人生に起こる出来事も皆そうだと言うのです。ピーマンやニンジンや玉ねぎが必要なように、私たちの成長にとっても、1つひとつの出来事が必要となるというのです。
私たちは、一生懸命に祈ります。その結果、祈りが聞かれないことを経験します。自分の願い通りにならない経験をするのです。でもそうした経験を通し、神の御心を待ち望んで忍耐することを学び、御心こそが最善であることを知るのです。また、ある時は、そりの合わない人や苦手な人と一緒に仕事をします。「この人は要らない、と言ってはならない」と、私たちは聖書で教えられていますが、人との出会いの中で、〈この人は要らない〉と思ってしまう自分自身とも出会い、悔い改めさせられるのです。
そして、共に十字架についていた強盗のためにも死なれた主イエスの愛を知るのです。また、3度も主イエスを裏切り、自己嫌悪し、どん底まで落ち込んでいたペトロに対して、ヨハネ福音書21章で、「わたしはお前を愛している。お前は、わたしを愛するか。わたしの羊を飼いなさい」と言って、本当に愛された神の子どもたちを、ペトロに託していかれた主イエスの懐の広さ、寛容さを知っていくのです。
このようにして、神さまは、日常に起こり来る様々な出来事、それら全ての出来事を通して、本当のキリストの愛、広く、長く、深く、高い愛を体験させ、私たちをキリストに似た者へと成長させたいと願っておられるのです。
最後のポイントは16節です。「イエスさまはすべてを結び合わせ、組み合わせ、成長のために用いる方である」ということです。
祈りが聴かれないことがあります。また嫌な、辛い出来事も起こります。でもそれ自体がクリスチャンとしての成長を阻害する要因とはならない。むしろ、全てのことが、相働いて益となるのです。
「主よ、私を池の中に入れてくれる人がいない。私が行こうとすると、他の人が先に降りて行ってしまう!」、そう言わない限り、つまり他人のせいにしない限り、クリスチャンとして私自身の成長が止まることは一切ないのです。
パウロは、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)と語りますが、それは1人ひとりが成長し、キリストに似た愛の人になるためです。
私が裕福になるためではありません。思い通りに事が進んで行くことでもない。ライバルを押しのけて、自分だけが競争に勝利するためでもありません。そうではなく、私が愛の人になるため、イエスさまに似た者になっていくために、神さまは全てのことを相働かせて益としてくださるというのです。

Ⅳ.キリストにあって可能です

私たちクリスチャンは自分の人生の責任を任されています。それを受け止め始めた時に、信仰生活にギアが入るのです。聖霊の後押しによって動き始めることを経験します。
私たちの生活において信仰のギアが入る時に、つまり「王」として、責任者として「主よ、私を成長させてください。成熟へと導いてください」と自らを受け止める時に初めて、聖霊の息吹を体一杯に受け始めます。
聖霊が起こされる波に乗り始めるのです。誰でもキリストにあって、自分の人生の主役です。キリストにあって、私たちは変わることが可能なのです。
自分の弱さや欠点も、また長所も賜物も、全てを主にあって受け止めることができる。またどんな人ともキリストの愛で結び合って生きる力が与えられていくのです。
勿論、私にはできません。しかし、キリストにあってそれは可能なのです。このことを覚えて、私たち、集い喜び分かち合う歩みを進めていきたいと願います。
お祈りします。