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主日共同の礼拝説教

主にあって従う

 

2019年2月24日
和田一郎副牧師

申命記6章4~15節 コロサイの信徒への手紙3章22節~4章1節

 

Ⅰ.「奴隷」と「主人」

コロサイの信徒への手紙の3章の後半では、家族関係について具体的な教えを述べています。18節では夫婦の関係、20節では親子の関係です。そして続く今日の22節以降の箇所では主人と奴隷の関係について述べられています。パウロがこの聖書を書いた時代は、家の中に奴隷と呼ばれる人が住んでいたので、主人と奴隷との主従関係も家庭の問題でした。しかし、今日では社会における人間関係と言った方がいいでしょう。
「奴隷たち・・・主人に従いなさい」とありますから、キリスト教は奴隷制度を肯定していると勘違いされるかも知れません。しかし、旧約聖書でも律法の中では奴隷を虐げたり、残酷に扱うことは許されていませんでした。新約聖書の中でも、パウロはキリストの前では奴隷も主人も平等であると教えています (ガラテヤ4:28)。ですから、奴隷制度はキリストの教えからすれば良くない制度です。そうではありますが、当時の世界では奴隷制は定着していました。ですから、今日の箇所で教えているのは、制度に反対することではなくて、自分の今置かれている制度の中で、どう生きるべきなのかが勧められているのです。現在の社会制度の中でも、職場における経営者と従業員のように、上司と部下の関係というものがあります。職場というのは、複数の人がある目標に向かって働いています。同じ方向に向かっていくための秩序として、上司と部下といった順列が必要となります。
学校という場所も、先生と生徒という関係があります。ここにも従うべき順列があります。そのような、自分の今置かれている役割の中で、どう生きるべきかをパウロは教えているわけです。
22節ではまず、「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えず、主を畏れつつ真心を込めて従いなさい。」と教えています。肉による主人とあります。霊的な主人は神様ですが、肉の主人は実生活の中で上の立場にある人です。その人に対して「うわべだけで仕えるのではなく・・・真心をこめて従いなさい」と言っています。そうは言われても、なかなか難しいことだと感じられる方も多いと思います。わたしがこの説教の準備をしていた1週間の中でも、「バイトテロ」のニュースが何度も流れていました。アルバイトをしている職場で会社の評判が下がるような悪ふざけをして、その動画を配信して楽しんでいる若者がいるそうです。職場に対して真心をもったり、上の立場の人に誠実に仕える事とは、正反対の実態があると感じさせられます。
昔の日本はどうだったでしょうか。日本には武家社会が長くありましたから、武士道という価値観があって、上の者に対して忠義を大切にする文化がありました。聖書でも妻が夫に従うこととか、奴隷が主人に従うように書かれているので、日本の武家社会と重なるころも感じます。
昔、菅原道真という人がいました。道真は都を追われて逃げていた時がありました。敵は道真の一族すべてを滅ぼそうとして、道真のまだ幼い息子のゆくえも追及していました。そこである寺小屋にその息子がいることを突き止めた敵は、道真の以前の家臣に「その息子の首をもってまいれ」と残酷な命令をだすのです。しかし、道真の息子とよく似た子どもがいて、そのよく似た子ども自身と親は、自ら道真の息子の身代わりになったというのです。我が子を差し出した父親は妻に言いました、「喜べ、我が子は立派に道真様のお役に立ったぞ」というものでした。忠義を果たす武士道精神を表す典型的な話しです。
この話を大切にする人は、武士道の忠義とは、決してやみくもに主君に服従するだけではなくて、命を投げ出しても惜しくない主君を持つ事の素晴らしさを説明します。明治を代表するある学者は、菅原道真の息子の話を、これはアブラハムが我が子イサクを捧げたことと同じだと言いました(『武士道9章「忠節」』より)。どちらもその義務に応じて、上からくる声の命じるままに従ったのであって、それは素晴らしいと解釈する学者がいました。
しかし、武士道の忠義とアブラハムの信仰は根本的に違いがあります。アブラハムが息子イサクを祭壇に捧げた時、そして刃物を振り下ろすその時も、アブラハムは決して息子のイサクの命を捧げようと思ったのではないです。神様は「息子イサクから子孫が生れる」と約束をされていました。そう約束された以上、神様はイサクを死なせるはずはないと信じていました。それがアブラハムの信仰です。アブラハムはイサクを捧げることを通して、神様の約束に対する信頼を現わしました。そして、神様はその約束を忠実に守られました。イサクに子孫を与え、その子孫を祝福し繁栄されました。
武士道の忠義というものは、下の者が上の者に対して義務を負うことを強調した、偏った要素があるように思います。主君や国家が正しいとは限らないのです。正しくない主君や国家のために、尊い命を差し出すということが起ってしまいます。

Ⅱ.「人に対してではなく、主に対してするように」(23節)

しかし、今日の聖書箇所には「奴隷たち・・・主人に従いなさい」という言葉に続いて、23節「人に対してではなく、主にたいしてするように」とある通りです。上司に対してするようで、神を畏れつつ、神に対するように真心を込めて主人に従うのです。
なぜなら、「あなたがたは、御国を受け継ぐという、報いを主から受けることを、知って」(24節)いるからです。ただ上司が言うからとか、ただ会社のためという次元で働くのではなくて、神様から与えられた仕事を、神様に対して責任を負うという目線で従うというものです。そこには、神の御国を受け継ぐという報いがあります。
奴隷と主人の関係と同じように、夫婦の関係も、親子の関係も、上下の人間関係の要素があります。バークレーという神学者はキリスト教において人間関係の倫理とは、相互義務の倫理だと言っています。だから「他人はわたしに何をしてくれるか」ではなくて、「わたしは他人に何ができるか」を問われていると説明していました。主人であっても、部下であっても相互に義務があるわけです。妻と夫もそうですし、親子の関係においても相互に義務があります。

Ⅲ.「主人たち」

ところで、パウロは奴隷の関係について少し長く説明しています。コロサイの教会にフィレモンという人が関わっていたと言われています。フィレモンは奴隷の主人でした。それだけフィレモンは裕福だったようです。そのフィレモンに書いたパウロの手紙が、新約聖書の『フィレモンの手紙』です。1ページ半で終わってしまう短い手紙が、聖書に収められているのですが、パウロの慈愛に満ちた手紙です。
パウロはこの手紙で、フィレモンに、一つのことをお願いしているのです。それは、オネシモという一人の奴隷についてのことです。オネシモはかつてフィレモンの奴隷でしたが、主人のもとを逃げ出して、パウロのもとに身を寄せているのです。主人のもとを逃げ出したオネシモは、キリストを信じる信仰者となり、今はパウロの世話をしているのですが、そのオネシモをパウロは今、フィレモンのもとに送り帰そうとしているのです。そして、お願いというのは、オネシモを信仰の仲間として温かく迎え入れて欲しいと、頼むためにパウロは『フィレモンへの手紙』を書いたのです。
「かつての奴隷オネシモは、あなたにとっては、一人の奴隷にすぎないが、主を信じる者としても、愛する兄弟となった。あなたとオネシモの関係は、信仰によって神の家族、愛する兄弟になったのだから、そのことを受け止めてほしい。」とパウロは願ったのです。パウロは奴隷に対しても、主人に対しても、神の前では公平であると諭しています。この世の制度の中では、上に立つ者としての役割と、従う者の役割がありますが、神様の前では信仰の仲間として温かく迎え入れて欲しいと願ったのです。
与えられた場所で、自分がそこで何ができるのか。この一週間、そのことを心に留めて歩みたいと思うのです。今日の聖句23節の言葉で説教を終わりたいと思います。
「何をするにも人に対してではなく、主に対してするように心から行いなさい。」
お祈りをします。