カテゴリー
主日共同の礼拝説教

聖霊の息吹を受けて

 

2019年3月3日
松本雅弘牧師

使徒言行録2章22~41節・エフェソの信徒への手紙1章3~14節

Ⅰ.ペトロの説教

ペンテコステの日に説教した後、ペトロは聴衆に向かって悔い改めを迫りました。悔い改めとは神に向かって生き方の向きを変えることです。主イエスに倣うことです。そしてもう1つのこと、それは、悔い改めのしるしとして洗礼を受けた者に与えられる聖霊についてです。
今日はエフェソ書1章から、聖霊が与えられたことの恵みについて御言葉に聴いていきたいと思います。

Ⅱ.三位一体の神の働きにおける聖霊の働き

エフェソの信徒への手紙の1章3節から14節は、元々のギリシャ語では、ひとつながりの長い文で綴られているのです。
そして、その中心となる言葉が、「ほめたたえられますように」という言葉です。
つまり、日本語で11節にわたる、長い一文全体が「ほめたたえられますように」という三位一体の神への賛美の言葉なのです。
あの2千年前のペンテコステ以降、「クリスチャン1人ひとりが、そして私たち教会が、聖霊を宿す神殿となった」、このことは、これまでに何度も何度もお話してきました。
パウロは、この恵みの現実の中にあなたたちは置かれているのですよ、とエフェソの兄弟姉妹の心に、そして私たちの心に訴え、思い起こさせ、「ほめたたえられますように」と、神を賛美しているのです。

Ⅲ.神との交わりに生きる人間

考えてみれば聖霊が与えられているということは大変な現実なのではないでしょうか。
この点についてパウロは、「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(エフェソ1:13)と語り、聖霊と御言葉の関係について説明しています。
ペンテコステ当日、ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒2:38)と語りましたが、そう語った約束が、今、「あなたがたの上にもまた」実現しているのですよ、と言う意味を込めて、パウロは「あなたがたもまた」と記すわけです。13節ではさらに、私たちがクリスチャンとなったのは、まず「真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じた結果なのだ」と語られています。
その結果、聖霊の証印を押された私たちは、さらに真理の言葉である御言葉、私たちに当てはめるならば、聖書の御言葉に親しみながら、クリスチャンとして成長させられていくのだというのです。
創世記を見ますと、本来、人間は神と交わる者として造られました。神との交わりに生きる時、はじめて人間らしく生きることができる者として造られたのが人間だと教えられています。
しかし人間は罪により、神との関係が断絶してしまったがために神と交わる能力が眠った状態のままであるわけなのです。では眠った状態の霊を覚ますには何が必要なのでしょうか。それが、パウロが言う「真理の言葉」、すなわち「救いをもたらす福音」(13節)を聴くということ。神の語りかけを聞き続けることなのです。
私の名前は、「雅弘」と申しますが、小さい頃から「雅弘、雅弘」と呼ばれて育ってきました。そう呼ばれ続ける中で、〈太郎でも、一郎でもない、雅弘である〉という風に人格が形成されていきました。マルコによる福音書5章に、レギオンを宿し、墓場を住処としていた男とイエスさまとの出会いの話が出てきます。
主イエスは、墓場を住処とし自分で自分を傷つけ血だらけになっている男と出会われた時、彼に向かって「名は何というのか」(9節)と尋ねられたのです。
ところが彼は、それに応えることが出来ませんでした。「名はレギオン。大勢だからです」と言ったのです。「レギオン」というのは「ローマ軍の五千人規模の軍団」を指す言葉で、「たくさん」「大勢」という意味です。
彼は自分にしか与えられていない《固有の名/本当の名》、言い換えれば《自分が一体誰なのか》がわからなくなっていたのです。主イエスに「あなたの本当の名前は何ですか」と問われて初めて、自分を取り戻すスタート地点に立つことが出来ました。
マルコ福音書5章を見ていくと、あれだけ村の人々に手を焼かせ、恐怖に陥れた、その彼が、主イエスと出会ったその結果について、「レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座ってい」(15節)た、そして主イエスにお供したい、と申し出たと伝えています。
元々のギリシャ語の言葉は違っていますが、あの放蕩息子が本心に立ち返って、父の家に帰って行った時の魂の状態、心の状態がここにあるのです。
黙示録2章17節に、「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」とありますが、私自身の本当の姿、私の本当の名、恵みの名前をご存じの方は、この私をこのようにお造りになった神さまです。
私自身が統合され、〈ああ、自分は自分でよかったんだ〉と思えるのは、私を造られた神を知り、そのお方との親しい交わりを通してでしかないのです。神がこの者にお与えになっている恵みの名で、この私を呼んでくださる。聖書を通し語りかけてくださる、その御声を聞き続けて行く時にはじめて、私たちは自分というものをはっきりと掴むことができるのです。私にしか与えられていない、その恵みの名前を喜びの内に生きていく。そのようにして、今まで眠っていたものが甦り、次第に神さまへの信頼と愛の中に私たちは生き返っていくのです。

Ⅳ.約束の聖霊が与えられていることの尊さ

エフェソ書に戻ります。13節の後半に「約束された聖霊で証印を押されたのです。」と書かれています。
第1に「証印」とは英語の聖書では「ブランド」と訳される言葉ですが、家畜の持ち主をあらわす焼印、しるしのことです。
ある時、主イエスは、「皇帝に、税金を納めるべきでしょうか。納めてはならないのでしょうか」(マルコ12:14)と質問を受けたことがありました。そうしますと、そこにあった銀貨にカイザル/皇帝の銘が刻まれていることを確認した後、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(17節)とおっしゃったのです。
随分前ですが、田川健三という聖書学者が『イエスという男』という衝撃的な書物を書き、とても話題になりました。そのなかで田川はこの箇所を解説しているのですが、それを読んだ時、心の中でストンと落ちる経験をしたことを思い出します。
田川曰く、私たち人間は、神のかたちに似せて造られている存在である。であるから「神のかたち」、それは「神の銘」が刻まれているということだ。それが人間だ。だから、あなたは、既に神の銘が刻まれているのだから、もはや自分自身のものではなく神のものなのだから、神に自らを返すように、捧げるようにと語っていると解釈していました。
なるほど、と思わされたことです。パウロはここで、私たちは「聖霊のブランド」が押され、実質的にも神のものだと語るのです。
主イエスが洗礼を受けられた後に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」と天から声がしましたが、私たちは安心して、私は神さまのものとされた、と告白してよいのです。
生存競争を勝ち抜くようにして生きていくのではありません。むしろ、神さまによって生かされていくのです。神さまの、「生きよ! 聖霊を受けよ!」という御言葉に励まされて、生きることが許されているのです。
このことの関連で、14節に「御国を受け継ぐための保証」という言葉がでてきます。
「保証」という言葉、これはギリシャ語で、「アラボーン」という当時の法律用語です。意味は「手付金」ということです。
ご存知のように、「手付金」を払ったら、契約が成立し、その全てが自分のものとなる。従って、「手付金を支払う」ということはとっても重要な行為なのです。
私たちは聖霊をいただいている。それは御国を受け継ぐ「保証/手付け」であり、その手付が払われたわけですから、その結果、私たちは御国、神の国を受け継ぐ者とされた、言い換えれば、聖霊の働きの中で神の国にふさわしい者とされたという保証です。このような素晴らしい聖霊が私たちに与えられているのです。
最後に、もう一度、ペトロの招きの言葉に耳を傾けたいと思います。「ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。』」(使徒2:38)
聖霊をいただいていることがいかに恵みなのか、その聖霊の息吹を一杯に受け、感謝しながら歩む1週間でありたいと願います。
お祈りします。