2019年3月10日
松本雅弘牧師
マタイによる福音書20章29~34節
Ⅰ.2人の盲人
この時、主イエスは十字架で贖いの死を遂げるためにエルサレムに向かっていくところでした。そのエルサレムに向かう最後の宿場町がエリコだといわれています。
そこに2人の盲人が「道端」に座って物乞いをしていたのです。目の見える人にとって、「目が見える」ということは「普通のこと」と考えます。でも「普通でない」2人の盲人のために、当時のユダヤ社会が提供した居場所が、普通、人は通らない「道端」でした。
ところが突然、彼らは「道端」から街道のど真ん中に立ち、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び始めたのです。
その途端に周囲の人々は盲人たちを叱りつけ、黙らせようとしました。このように当時のユダヤ社会には「道端」にいる人間は、そこに居続けるようにと仕向けるシステムやルールがあったのです。
実は、似たようなことが、今を生きる私たちの周囲にもたくさんあります。その社会を作りだし、容認しているのが私たちですから、知らず知らずの内に、そのようなシステムを維持し強化する一端を、担っているかもしれません。
明日は3月11日です。私はこの説教の準備をしながら福島の原発のこと、そしてまた、先日、県民投票が行われましたが、あの沖縄の基地のことなどを思い出しました。それらのことも、今日の聖書の出来事と相通じるところがあるのではないかと思います。そうした中で、「道端」を居場所としてあてがわれた少数の弱い立場の人々が、とても辛く、さびしい思いをしてしまう。ここに登場する2人の盲人は、そうした辛さや悲しさ、生きづらさを感じている人々の代表のような人たちだったわけです。
Ⅱ.主イエスとの出会い
ある日、急に大勢の人の足音と話し声が近づいて来たのでしょう。
ルカによる福音書には「これは、いったい何事ですか」と、行き交う人に訊ねたことが出てきます。すると、いつもは道端に座っている人など相手にしないはずなのに、その質問に、「ナザレのイエスのお通りだ」と答えてくれる人がいました。
この時に初めて主イエスが来られることを彼らは知りました。たぶん彼ら盲人は、人通りの一番多い場所を見計らって座っていましたから、目が見えない分、通りを行き来する人々の話し声、また、さまざまな話が、耳を通してたくさん届いて来ます。そうした情報の中に、病を癒し、盲人の眼を開く奇跡をなさってこられた、イエスという男の噂話も聞いたことでしょう。
その主イエスが自分たちの前を通り過ぎる群衆の中におられるということを知った途端に、居ても立ってもいられなくなって道端から立ち上がり、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。
人々はその彼らを叱りつけ黙らせようとします。本来の居場所である「道端」に引きずり戻そうとします。でも「勇気を出すとするならば、今、この時しかない」と彼らは思ったのでしょう。体の中のありったけの勇気と力を振り絞り、どこにいるとも分からない主イエスというお方めがけて「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び続けながら歩き始めたのです。そして、とうとうその求め、訴えが主イエスに届きました。
「イエスは立ち止まり、二人を呼んで、『何をしてほしいのか。』と言われた」と聖書に書かれています。
Ⅲ.何をしてほしいのか?
私は、この「何をして欲しいのか」という主イエスの問いかけは本当に大事だと思います。もし主イエスからそう問われたとしたらどう答えるでしょう。考えてみたいと思うのです。
彼らにとっての、叫び訴えることは、私たちにとっては、祈り求めることと同じです。私たちは祈りの中で何を求めているのでしょうか。本音の部分の祈りって何でしょう。
この出来事の前、主イエスは弟子たちを呼び集め十字架での贖いの死についてお話しなさいました。その受難の予告と、この盲人の癒しの間に挟まれるように紹介されている出来事があります。それはヤコブとヨハネが母親と共に密かに主イエスにお願いにやってきたことです。
その彼らに向かって主が語った言葉と、必死になって「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び求めた盲人たちに対して投げかけた問いが全く同じ「何が望みか/何をして欲しいのか」(21節/32節)という言葉なのです。
その時、母親が求めたことは息子たちが「偉くなること」、「出世すること」でした。それも他の10人の弟子たちを差し置いて息子たちだけが偉くなることです。これに対して主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とお答えになりました。
そして「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と語られたのです。
私たちは、「何をしてほしいのか」と主イエスから訊かれたら何と答えるでしょう。「偉くなることです」と出世を求めるでしょうか。あるいはお金が儲かるとか、私たちの全ての願いが叶って幸せになるとか。問題は、そうしたことに主イエスが答えてくださるかどうか、ということです。
ヤコブとヨハネの母親が「主イエスが王さまになられる時に、右に左においてください」ということをずっと祈ったとしてもそれは叶わないことでした。でも、その後、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ20:26-28)という、主イエスの御心に触れ、その御心の中で願う時に、主は私たちの祈りに応えてくださるのです。
もう一度、今日の聖書の箇所に戻りたいと思います。この盲人たちは主イエスの「何をしてほしいのか」という問いかけに対して「主よ、目を開けていただきたいのです」とはっきりと答えました。それに対して主イエスはどうなさったのでしょうか。「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」とあります。その結果、「盲人たちはすぐに見えるようになり、イエスに従」いました。
ルカ福音書では、「これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」(ルカ18:43)と、その時の周囲の様子も記録に残されています。
ここで注意したいのですが、道端に居た彼らが、見えるようになった結果、道路の真ん中に出て行った。つまり、この時代のいわゆる「普通の人」の生活が出来るようになった、ということではなく、また喜び躍り上がって家に帰り元の生活に戻ったというのでもありません。そうではなく、「イエスに従った」のです。ともすると 私たちは、救いによって、道端から道のど真ん中を、それも胸を張って歩くような人生が得られることを思い描くかもしれません。でも神さまの救いとは、道の中心、中央に向かって豊かになり偉くなっていくのではなく、あくまでも主イエスに従う歩みなのです。
Ⅳ.解放としての救い
ある時、主イエスは、「メシアのしるし」について次のように御語りになりました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(マタイ11:5)
見えなかった者が見えるようになる。立てなかった者が立って歩み、貧しい者が福音を聞かせられる、というのです。「見えなかった人が見える」というのは、それは「覚醒」と言い換えても良いかもしれません。また、「立てなかった人が立って歩く」というのは「自立、主体性の回復」ということでしょう。
そして「貧しい人は・・・」とは、奴隷、抑圧されている者たちに福音が聞かされる。すなわち「解放が宣言される」ということです。
つまり、2人の盲人の「見えるようになることです」という願いは、まさに主の御心通り、聖書でいうところの「人間の回復/神の像の回復」ということでしょう。
マルコ福音書10章を見ますと、この2人の内の1人はバルティマイという名の人でした。それまでの彼は、他人に手を引かれて歩き、頭を下げて物乞いをし、それこそ道端に押しやられていた厄介者や無資格者のように扱われていましたが、今や自分からイエスに従っていく、実に堂々とした人物へと解放されて行ったのです。
主体的な自由人、それも「自分だけ、私だけ」という世界ではない、主イエスの福音に応答したバルティマイも、そしてもう1人の盲人も、「わたしたちを憐れんでください」(31節)と、「自分1人ではない、私たちも共に」という連帯の祈り、「主の祈り」の世界です。そのような意味で、人間らしく、バルティマイらしく、本当の自分へと解放されていったのです。そのようにして自分たちが変えられていった。いや、本来の自分たちを回復していただいた。それがイエスというお方との出会いにおいてなされた奇跡なのです。
主イエスはそのようなお方として、私たちと出会ってくださるのです。それが今日のメッセージです。お祈りしましょう。