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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

使徒言行録2章の教会をめざして

2019年3月17日
松本雅弘牧師
使徒言行録2章42~47節

Ⅰ.はじめに

「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」。(歴代誌下16:9)という聖句があります。
主なる神が、ある種の人々を世界中いたるところをくまなく見渡して探しておられる。それは御自分と心を一つにする人です。主はそのような人を見つけたら力づけるというのです。
今月、アジア・ミッション・フォーラムが渋沢教会で開催されます。アジアの諸地域のカンバーランド長老教会を代表する方たちが集い、祈り合い、話し合いの時を持ちます。まさに主の御心を求め、御心と思いを一つするための集いです。
ところで、カンバーランド長老教会が誕生したのも、主の御心と一つになることを願い求めていったからです。
当時の長老教会は『ウェストミンスター信仰告白』にある「二重予定の教理」ゆえに、次第に証しの生活に力が入らなくなっていました。
そうした中で、カンバーランド地方の長老教会の人々は違っていました。「この人は洗礼なんか受けやしない。この人は『信仰告白』で言うところのクリスチャンにならないようにと予め定められている人なのだから…」、そのように思われていた人たちの中から、次々と回心者があらわれ、礼拝に通い始め、聖書を読み祈る生活へと変化していったのです。聖霊の息吹がもたらしたその働きに身を置くことによって、彼らは神から力づけをいただくことになります。そして次第に「二重予定の教理」を全面的に受け入れることができなくなっていったのです。
当時の記録では、教会は信者で溢れていく反面、聖礼典を執行する牧師が不足していたというのです。そうした緊急性の中で、カンバーランド中会は正規の神学校を卒業していなくても、ふさわしい人材には按手を授けたのです。これが、当時の長老教会に受け入れられず、カンバーランド中会は、1810年2月4日、長老教会から離れ、新たにカンバーランド長老教会を創設していくのです。ですから「カンバーランド」という名称を見る時、私たちは「伝道熱心の故に始められた教会」であることを思い起こし、そしてこの宣教のスピリットを失ったらいけないと思うのです。この宣教のスピリットこそ遡っていけば、使徒言行録2章の教会につながっていくのではないかと思うのです。

Ⅱ.使徒行録2章の教会をめざして

さて、6回にわたって、「使徒言行録2章の教会」の姿に学んできました。弟子たちが一つになってひたすら御心を求めて祈っていく中、約束の聖霊が彼らに降り、1人ひとりが復活の主の証人、祭司・預言者・王として立たされていく。そのようにして「使徒言行録2章の教会」は誕生していきました。
その日常的な姿が使徒言行録2章42節以下に出ています。そしてその姿はまさに、私たちが「信仰生活の5つの基本」と呼び、加えて教会の使命として受けとめている「3つのめざすもの」を大切にする教会の姿と重なるのです。
あの2千年前のペンテコステの日に誕生した「使徒言行録2章の教会」と同様に、実は今、私たち高座教会にも聖霊が宿るがゆえに現れる恵みであることを、もう一度、覚えたいと思うのです。いや、覚えるだけではなく、そうした教会を祈り求めて行きたいと願うのです。

Ⅲ.ぶどうの木につながれば実を結ぶ

ルカは「使徒言行録2章の教会」と呼ばれるエルサレムの教会の姿を記しながら、「教会はこうあるべきだ、クリスチャンはこうでなければならない」という仕方を示しているのではありません。むしろ聖霊が働いたときの結果を淡々と報告しているのです。
つまり「使徒言行録2章の教会」とはあくまでも聖霊の働きの結果であり、その果実だからです。ではそうした実を結ぶためにはどうしたらよいのでしょうか。
それが私たちの今年の主題の前半に出て来る、「私たち、集い喜び分かち合う」ことです。これまでも分かち合ってきた表現を用いるならば、共に教会に集い、そして喜び分かち合うことで、ぶどうの木であるキリストにつながり続けるということです。何故なら、聖書の大原則は、「ぶどうの木であるキリストにつながって実を結ぶ」ということだからです。

Ⅳ.関係から入り、存在が扱われ、実を結ぶ

私たちが神にあって聖霊の実を実らせるために聖書が示すプロセスがあります。それはキリストとの生きた関係を築くことから始めることです。
まずぶどうの木であるキリストとの関係を大切にし、次に私たちの存在が、主に取り扱われ、実を結ぶ。その順序こそ聖書が教えるプロセスです。ところが、往々にして逆を行ってしまうのです。例えば洗礼を受けた後も、まずは変化とか成長といった果実自体を追求し、それがなかなか起こらずに苦しくなる経験をよくします。それは聖書が教える逆を行ってしまっているからです。
自身の変化は、ぶどうの木であるキリストにつながり、そのお方との親しい関係を持って初めて起こってくる恵みの出来事なのです。ですから自分を自分の力で変えるのではなく、ぶどうの木であるキリストにつながり、キリストとの親しい関係の中で聖霊がそのぶどうの木であるキリストを通してつながる枝である私に働きかけてくださる。その結果、私の存在自体が取り扱われ、少しずつ変えられていく。その共同体である、高座教会が変えられていくのです。ですから、聖書が私たちに語る神さまが最初になさること、それは私たちをご自身との関係の中に招かれるということです。
聖書の最初から終わりに至るまで、神さまは私たちを招かれるお方、呼ばれるお方なのです。最近、聖書を読みながらつくづく思わされるのですが、神さまは主導権を執って招くお方です。
ある牧師はこう語っています。「金持ちで自分の生活に満足していた砂漠の族長アブラハムが神さまに招かれたのは、ある夜、星を見つめていた時でした。モーセの場合は殺人犯として荒れ野に隠れていた時です。イザヤは神殿で祈りを捧げていた時、ペトロは漁をしている時でした。ザアカイは好奇心いっぱいで、いい歳をしながら木登りしていた最中です。マタイは収税所でお金を数えている時、パウロは信仰者への迫害に燃えて走り回っている時でした」と。
クリスチャンにふさわしくなってから招かれるのではなく、そのままでまず招いてくださる。ですから主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(それは)あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(ヨハネ15:16)と選んだとおっしゃるのです。神の招きが先行する。ぶどうの木であるイエスさまにつながるようにと、まず主イエスとの愛の関係に招いてくださるのです。ですから祝福された信仰生活の大原則は「木につながれば実を結ぶ」ということです。「神さまのために何かしてやろう」というところから信仰生活は始まりません。「人のために何かしよう」というところからもスタートしません。神に愛されるために「良いクリスチャンにならなければ」という放蕩息子のお兄さんのようなところから始めないのです。仮に良い行いから信仰生活を始めるならば必ず息切れするでしょう。例えば神のために人のためにと思って始めたことでも相手が感謝してくれないことにカチンと来て、「この人はひどい人だ。全く感謝がない」と相手に不満を持つでしょう。そればかりか、その人間関係を放置している神に対して不満を持ち不機嫌になって周囲を責めることでしょう。ですから、まず神さまとの関係から始めます。
キリストが「ぶどうの木」で私たちは「その枝」です。「良い枝になってからつながりなさい」と主は一言も言われず、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言ってくださったのです。弱っている枝も、ちゃんとぶどうの木につながれば、樹液が流れて、やがて強められ、そして実を結ぶのです。つながれば、そうした結果になるのです。
そのつながり方を、「信仰告白」では「恵みの手段」と呼びますが、それをまとめたものが「信仰生活の5つの基本」です。この5つはクリスチャンになるための条件ではなく、ぶどうの木への具体的なつながり方をまとめたものです。
使徒言行録2章の教会は生き生きしていました。でも最初からそうだったのではありません。どのようにしてそうなったかと言えば、彼らが共に主イエスを中心とする交わりに集ったから、ぶどうの木につながったからです。
その結果、聖霊の実として、喜ぶ彼らに変えられていった。その喜びを分かち合う彼らに変えられていったのです。そうした恵みの循環が、主イエスを中心とする交わりに集うこと、つまりぶどうの木であるキリストにつながることから始まって行ったのです。
それが今年の高座教会の活動のテーマ、「私たち、集い喜び分かち合う―使徒言行録2章の教会をめざして」の意味なのです。お祈りします。