あなたは大切な人です

主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

キリストの塩味

 

2019年3月24日
和田一郎副牧師
コロサイの信徒への手紙4章5~6節

1、「時をよく用いる」・・・・機会を大切にする

今日は「伝道のあり方」をテーマに、コロサイの手紙から学びたいと思います。パウロは「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい」(5節)と勧めています。大事な機会を教会の外の人達に伝道するために賢く用いなさい。それが信仰生活の過ごし方として、パウロが勧めていることです。
イエス様も、このような話をされました。12人の弟子を選んでから、彼らに向かって「伝道するために、町に出て行きなさい、困っている人を癒しなさい」と言って送り出したのです。そして、伝道をする時にはコツがあると言ったのです。それが次の言葉です。「わたしは、あなたがたを遣わす。それは、狼の群れに、羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイによる福音書10章16節)。あなたたちは、羊のようにまだ弱い伝道者だが、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」それが伝道するコツだと教えたのです。ヘビが獲物を素早く追いかける姿を見た事はあるでしょうか。ヘビは追いかけません。ヘビの知恵は、自分のところへ来るまで待っていることです。その機会を待っていて逃さないことです。時を用いて、機会を活かすという知恵です。もう一つ「鳩のように素直に」とイエス様はおっしゃいました。鳩は穏やかで人が手づかみで捕まえられるほど、大人しい素直な鳥です。蛇の賢さと鳩の素直さ、この両方を身につけるのが、伝道をする時のコツだと言われたのです。逆に言えば、押しつけがましく聖書のことを話しては、相手に届かないのです。相手が「信じられない」という思いがあるならば「そうですよね」という素直に共感することも必要なのです。
アメリカでは「あなたは、ある人々にとって唯一の聖書だ」といった言葉を耳にするそうです。あなたは、ある人々にとって唯一の聖書、つまり人生で一度も聖書を開かない人は山ほどいます。日本ではなおさらです。聖書どころか人生でクリスチャンと知り合うことなく、生涯を終える人は沢山いると思います。ですからそういった人々にとって、クリスチャンと接点をもつのは、あなたが唯一かも知れない。そうだとしたら、その人にとって、あなたは唯一の聖書だと言えます。つまりイエス・キリストの真理に触れる唯一の接点かも知れないのです。ですから、その出会いを通して、あなたの言葉や様子や、あなたの生き様から、証しとして何かが伝わる機会となります。

2、「親がクリスチャンだから・・・」

みなさんは信仰をもったきっかけを話す機会があるでしょうか? わたしは、成人して社会人になってから洗礼を受けました。ですから、それまで付き合いがあった人たちは、わたしが教会に行っている、クリスチャンなのだと分かると、よく質問をされました。「どうしてクリスチャンになったの?」というものです。そこで一番無難で、相手が納得する答えがあります。それは「親がクリスチャンだから」という答えです。たいていの人はそれで「なるほど」と言って納得します。まるで親の職業の後を継いだような感覚なのだと思います。親が大工だから大工になった、親が教師だから教師になった。みたいな感じで、「親がクリスチャンだから」と言えば、自分も相手も納得してしまうところがあります。
しかし、信仰は一人ひとりの問題です。神様との関係の中で、自分の命、自分という存在を神様から与えられた、上からの力で預かっているのだと、そのように受け取るのかどうか、という自分一人の問題です。しかし、わたしが信仰をもった時は、そんな説明はできませんでした。親がクリスチャンで、大切な何かがそこにあると感じた。ただそれだけだったと思います。
他にも、私がクリスチャンだと知ると、質問されることがあります。「クリスチャンは愛っていう言葉を使うけど、嫌な人もいるじゃないか」とか、「復活とかいうけど、本当に死んだ人間が生き返るのか?」と言ったことです。それぞれキリスト教に疑問をもつことは沢山あります。
しかし、その人達が本当に知りたいことというのは、字義道理の意味だけではなくて、もっと率直な問いがあるのではないでしょうか?それは、「あなたが信じているものは本当ですか?」おとぎ話ではなくて「本物ですか?」といった関心ではないかと思います。「それを、あなたはどうして信じたのですか?」というものです。では、それに対してどう答えるべきでしょうか?パウロの言葉を借りれば、「塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(6節)ということです。

3、「塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」

イエス様はおっしゃいました。「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい」(マルコによる福音書9章50節)。塩は良いものである。つまり、キリスト教の信仰は、この世の腐敗を防止する働きがあるのです。「だが、塩に塩気がなくなれば」と言われるように、塩に塩気がなくなるということがあるのです。塩は雨や太陽に当たって塩気をなくすということがあるそうです。もし腐敗を防止する効力がなくなれば価値がありません。「何によって塩に味を付けるのか」といえば、キリストの塩味になるように、聖書の御言葉によって日々養われなければ、塩気がなくなってしまうわけです。
もう一つ、塩には「食べ物に味つけをする薬味」としての役割があります。日本には、いい塩梅(あんばい)という言葉があります。いい塩加減という意味です。いい塩梅の食べ物は美味しいですが、その美味しさは塩の味でしょうか?それなら塩っ辛いはずですが、そうではなく、塩はその素材の本来の美味しさを引き出す力をもっています。
イエス様は塩のような力をもっています。イエス様は、人々を癒し神様との関係を修復してくださいました。人々に変化を与えたのです。変えたといっても、その人の人格を上書きするように、別人になってしまうように変わったのではないのです。私たちが、本来もっている自分らしさを、回復させてくださったのです。本来の自分らしさというのは、創世記にあるように、神に似た性質をもって、神と信頼関係にあるのが本来の姿です。一人ひとりに個性をもった本来の姿があります。素材がもっている本来の味を塩が引き出すように、キリストの塩味はわたしたちの本来の味を引き出して変えさせる力です。
パウロは、教会の外にいる人達に伝道する時、その「塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」。と私たちに教えています。わたしが以前に答えていた、「親がクリスチャンだから」とう言葉は、あきらかに塩味が効いていません。

4、希望を与える

パウロが言う「塩で味付けされた快い言葉」というのは、具体的には福音の「希望」について話すことだと思うのです。というのも、パウロはこのコロサイの手紙1章で、コロサイ教会の人達が、希望に基づいて素晴らしい信仰生活を送っていることを聞いて喜んでいるからです。
「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。
それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。」 コロサイの手紙1章4―5節
パウロはコロサイ教会の人々に、「あなたたちの信仰と愛について聞きました。それは希望に基づくものですね」。と書いてます。信仰と愛はクリスチャンにとって大事なものですが、それは希望に基づくもの、希望があるからこそ信仰と愛があると言っているのです。希望があるからこそ、人は聞く耳を持ちます。希望があるからこそ、福音は世界中に広がっていきました。さて、人々に影響を与えてきた希望とは何か。それは、私たちの変えられた人生です。信仰をもったことによって変えられた生き様が、人々に希望を抱かせます。
わたしたちの、生まれ持った「持ち味」は、苦いものであっても、塩によって旨味がでてきます。本来の味を引き出して、素晴らしい味に変えられました。塩には以前のものを変えさせる力がありますが、キリストの塩味はその人の人生を変えるものです。その変えられた人生を伝えることが、何より塩味の聞いた言葉です。信仰をもった自分が、以前と違った生き方をしている、そのことを伝える言葉を持ちたいと思うのです。
イエス・キリストの、死と復活は希望です。古い自分が死んで、復活とともに新しい命が与えられる、その命には永遠の希望があります。
この一週間、地の塩となって歩んでいきたいと願います。お祈りしましょう。