カテゴリー
主日共同の礼拝説教

愛する兄弟たち

2019年3月31日
和田一郎副牧師
詩編5編1-13節  コロサイの信徒への手紙4章7-9節

1、ティキコ

金曜日からアジアの各国で宣教をされているカンバーランドの教会の牧師が日本に集まって、アジア宣教フォーラムという宣教会議をしています。11時の礼拝では、フィリピンのカンバーランド教会から来られたダニエル・ジャン宣教師が説教をしてくださいますが、フィリピンの宣教から学ぶことは多いと思います。
話はかわりますが、やはり同じカンバーランド教会である、アメリカのルイビル日本語教会の佐藤岩雄先生から手紙を頂きました。ケンタッキー州で現地の日本人のために牧師として働きをしています。手紙をいただいて佐藤先生ご家族の近況や、ルイビル教会の様子が手紙に書かれていてとても励まされました。手紙ですと、ルイビルの郵便局から人づてに飛行機にのって、まさに海を越えて人の手を介して私の手もとに届くわけです。一瞬で届くメールとは随分重みが違うと思いました。
使徒パウロは多くの手紙を書き、人の手を介して届けられました。新約聖書の時代には、ローマ帝国などが統治の手段として郵便を整備してはいましたが、一般の庶民が自由に利用できるものではなかったそうです。信用できる人を探す必要があったのです。パウロの手紙の特徴は、ただ情報を送ることだけではありません。手紙に書かれていることが、届いた先の教会の皆さんに正しく理解されることを目的としていました。パウロの手紙から、教会の運営のことや、一人ひとりの信仰生活について教えられたのです。
パウロは、信頼できる人を弟子の中から選んで手紙を託しました。たとえば、ローマ書を送る時は、フェベという女性の執事に託しました。第一コリントはテモテ、フィリピの手紙はエパフロディト、そして、エフェソへの手紙と今日の聖書箇所のコロサイ人の信徒への手紙を運んだのはティキコという人でした。
7節に書かれている言葉によると、このティキコという人は「愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕(しもべ)」とあります。「愛する兄弟」といっても、パウロのお気に入りの人だという意味ではありません。共に神の子である仲間という意味です。パウロはこのティキコに手紙を託しました。手紙を届けるだけなら他にも人がいたのだと思いますが、どうしてこのティキコを選んだのでしょうか。
フィリピンのカンバーランド教会もアメリカのルイビル教会も、この高座教会も、一つのキリストの体である信仰共同体です。ですから、お互いのことを知る必要があります。知ることによって物質的な支援や祈りの支援をするのが教会です。ティキコはその支援をするうえで、励ます賜物があった人であったようです。パウロが、経済的に困っているエルサレム教会のために、宣教旅行で集めた献金を届ける時に一緒にエルサレム教会に行った人がティキコです。そのように、励ましが必要なところに用いられた人でした。
パウロの手紙の内容は、叱咤激励をするような厳しいところもありますが、すべての手紙はパウロの励ましの思いで満ちています。当時の人々にとっても、今を生きる私たちにとっても、パウロから励ましを受けることができるでしょう。そしてパウロはこの手紙をティキコに託したのは、「彼によって心が励まされるため」だと言ってるのです。

2、オネシモ

そしてもう一人、ティキコと一緒にコロサイに派遣される人がいます。それが、奴隷の身分だったオネシモという人です。このオネシモという人は、コロサイ教会の信徒フィレモンのもとから逃亡した奴隷でした。新約聖書にはこのフィレモンへの手紙があります。たった1ページ半の短い手紙ですが、パウロの愛情に満ちた手紙です。オネシモという人は奴隷という身分でしたが、フィレモンの家から逃げていった奴隷でした。逃亡先のローマでパウロと出会い、パウロから福音を聞いて生き方が変わったのです。ですからパウロは、奴隷とは言わずに「忠実な愛する兄弟」つまり、同じ信仰をもつ主にある兄弟をそちらに行かせます、と書き添えているのです。さらに、フィレモンに対してオネシモを「奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟として」受け入れてくれるようにと、フィレモンの手紙の中で願っています。恐らくコロサイの手紙とフィレモンへの手紙は、一緒に届けられたのだろうと言われています。この二つの手紙を一緒に読むと、パウロの意図がより一層よく分かると思います。
私は、パウロが奴隷であったオネシモを、手紙と一緒に送って、それによって願った意図が2つあったのではないかと思います。一つは、かつて役立たずの奴隷であったオネシモが、イエスキリストを救い主として信じたという、生きた救いの証しを、コロサイ教会の人たちが見ることになるからです。人は誰かの「変えられた人生」を見ることで希望を感じます。以前は役に立たない奴隷とされたオネシモです。失敗をしでかして逃亡してしまったような者でした。それが、今やクリスチャンとなって生き方が変わったのです。しかもパウロから信頼を得る頼もしい信仰者となったのです。コロサイの人々はこれを見て、大いに希望を抱いて宣教の働きが励まされるでしょう。人一人の命が救われる、これは神の大いなる御業、奇跡です。
もう一つのパウロの意図は、奴隷であったオネシモを、主人のフィレモンが受け入れた時、かつては奴隷と主人という主従関係にしかなかった両者が、愛する兄弟となる。コロサイの教会の人々の目の前で、和解が成されるという恵みを見ることになるのです。
まさしくパウロがコロサイ3章11節で語ったように、「・・・もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」。といった言葉がコロサイ教会において、実現されようとしています。これはコロサイの教会の人たちにとって大きな励ましとなるでしょう。
わたしたちは、教会に繋がることによって霊的な兄弟姉妹、霊的な神の家族を得ました。それぞれの生い立ちや、賜物、価値観の違いはあっても、礼拝する場所はそれぞれ違っていても、神様との関係がしっかりとしているならば、仲間との繋がりがぶれることはありません。上との関係があって、横の繋がりがしっかりします。
私たち信仰者の繋がりは、好きな者同士だから、気の合った人だから付き合えるというものではありません。キリストの愛は、好きだから愛するとか、気が合ったから愛する愛ではなくて、罪にまみれて背中を向けていた私たちでさえ、神様の方から一方的に愛してくださった、片思いでもあきらめずに愛してくださった、その愛で仲間を愛するということです。そこへの信頼、その信仰が強ければ強いほど、私たち主にある兄弟姉妹、神の家族の関係もしっかりしてくるのです。信仰によって結ばれているからこそ、フィリピンの教会の人たちとも、アメリカの佐藤先生の教会の人たちとも一つになれる。これは神様の大いなる業です。
私も励ましがあって、教会に繋がることができたことを思い出します。わたしは大学時代のアルバイトの仲間が結婚することになったので、結婚式の幹事をすることになりました。二人は礼拝に行ったことのない人でしたが、地元の教会で結婚式をあげたいと思っていたそうです。それが高座教会でした。打合せのために、わたしはお二人と礼拝に行きました。そして、二人の結婚式の世話役をされていた長老ご夫妻が「お昼でも食べに行きませんか?」と言ってくださったのです。
結婚式の後、わたしは時々教会に顔を出すようになりました。礼拝にだけ出て、礼拝が終わるとさっさと帰るということが続きました。しかし、礼拝の受付でいつも声をかけてくださる、結婚式でお世話をされたご夫妻がいました。ほんの短い挨拶でしたが、自分の名前を知っていて声を懸けてくださる人がいる、というのは励ましになりました。
そして、洗礼を受けて信仰をもった時、信仰によって、神の家族という「仲間の力」を知りました。私にもティキコやオネシモのような人がいたのです。
みなさんにも誰かがいたと思いますし、誰かのためにみなさんの励ましが必要です。神様は、その人によって心が励まされるために、誰かを送ってくださいます。
イエス様は私たちの罪のために、犠牲を払ってくださいました。イエス様の死と復活は私たちの希望です。そのイエス様は、今も、わたしたちのために祈り励ましてくださっています。このことを心に留めて遣わされていきましょう。お祈りします。