2019年4月7日
松本雅弘牧師
イザヤ書11章1~9節 マタイによる福音書18章1~10節
Ⅰ.「だれがいちばん偉いのか?」
職場や学び舎で新しい出会いを経験する季節が来ました。この時期になるとほろ苦い経験を思い出します。それは受験に失敗したことです。
6年生の頃、急きょ中学受験をすることになり進学塾に通い始めました。進学塾では、しばしば「いい学校」の話を聞かされました。
聖書を読む者にとって「いい学校」は、神さまがその子のために備えられた、その子に適した学校のことですが、進学塾の基準は、他と比べ、偏差値が高い学校が「いい学校」です。偏差値によって全てが決まってしまうのです。おおげさな言い方ですが、偏差値で人間のランク付けがなされたような妙な感覚を持ち始めました。
私なりに勉強し、年が改まり試験当日を迎えました。試験会場に行きますと、誰もがみな賢そうに見え圧倒されました。すると、その中に同じ制服を着て輪になっている子どもたちがいました。金ボタンの紺の詰襟に半ズボン姿で学生帽。これまた、いかにも頭がよさそうな子どもたちばかりです。
そして、ふと校章を見ると「国立(コクリツ)」と書いてある。私は目を疑いましたが、確かに小学生でも読める「国立」の文字です。国立校は偏差値が高くて難しいと、進学塾に行くたびに叩きこまれていましたから「国立」の二文字を見た途端、〈国立校の子どもたちが受験するような学校に僕が入れるわけがない〉。
受検する前から敗北宣言です。結果は見事に不合格でした。
ただ後で分かったのですが、それは「国立」と書いて「クニタチ」と読むのだと知りました。でも後の祭りです。「あれ松本? お前、私立に行くんじゃなかったの?」と近所の友だちにからかわれながら、みんなと一緒に地元の中学校に進むことになりました。生まれて初めて、社会で味わう競争をほんの少し経験したように思います。
この世界、何事にも競争、競争で明け暮れています。会社の中に競争があります。営業成績を比較される。他の会社との競争があります。そうした競争社会の中で生き残っていかなければならない。そうした競争に明け暮れし、気がついたら定年退職、映画にもなりました『終わった人』の原作者、内館牧子さんは、その続編『すぐ死ぬんだから』という題名の小説を書いて話題になっています。
「終わった人」とか「すぐ死ぬんだから」という言葉やフレーズは競争を軸とする現代社会の価値観を言い当てた言葉です。その中で内館牧子さんはそうした価値観ではやっていけない人生の現実を乗り越える新しい物語を一生懸命に紡ごうとしていました。
実は聖書も、いや聖書こそ、「終わった人」とか「すぐ死ぬんだから」に、不思議と納得させられる、すでに私たちの心に刷り込まれている物語に代わる、本来的な希望の物語を説いています。
その物語によれば人間の価値はその人がやってきたこと、持ち物、経歴、あるいはどこまで到達したかによって決まるのではなく、すでに神が私たちをご覧になって微笑んでおられる。「あなたは価高く貴く/わたしはあなたを愛し」ている(イザヤ43:4)という揺るがない愛の神さまに支えられて生きることができる。そこにこそ生きる意味や喜びを見いだすことができる、という物語です.
今日の聖書の箇所をご覧ください。私は読んで驚きました。信仰を持って生きていたはずの弟子たち、神の大いなる救いの物語に生きていたはずのキリストの弟子たちの口から、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と飛び出しました。競争に勝利した者が幸いという、この世の物語に基づいて質問しているのです。正直だなと思いました。
こうした質問の背景には、弟子たちの間に順位争いがあったということでしょう。だからこそ飛び出した質問でしょう。
弟子たちは主イエスのお話を毎日聞いていたはずです。仮に、何が大事かをわきまえて生きていたならば、競争など関係ないように思われます。でも「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と質問したのです。そして、これは今の時代に生きる私たち信仰者の内にも同じような現実があることを認めざるを得ないように思うのです。
Ⅱ.子どものようになる?
このあからさまな質問に対して主イエスは、ひとりの子どもを呼び寄せ、真ん中に立たせ、「子どもを模範としなさい」とおっしゃったのです。主が言われたことは単純です。でもよく考えると意味が難解です。
実際に子どもの世界はそう純真とも言えないように思います。時に子どもの世界はとても残酷な面があり、「いじめ」事件が後を絶ちません。場合によっては、大人以上に露骨になることがあります。
「だれがいちばん偉いの、お父さん?」という質問こそ、実は子どもたちがよくする質問でしょう。そう考えると「だれがいちばん偉いのか」という問い自体が、実はとても子どもっぽい。その子どもっぽい質問に主イエスは、「子どもを模範にしなさい」とおっしゃっている。何か不思議な問答のように感じるのです。
Ⅲ.神により頼む、子どもの姿
では、子どもの何を模範にし、何を学ぶのでしょうか。ここで主イエスは子どもという存在をどのように見ておられたのでしょうか。
教会の庭を歩いていますと、保育が終わり、お家に帰る前に、しばらく園庭で遊んでいる子どもたちを見かけます。いまは桜が満開で、穏やかな季節になっていますので、お母さんたちは「虹のへや」や、あるいは外の椅子に腰かけ、おしゃべりを楽しむ一方、子どもたちは一生懸命遊んでいます。時にひとりで遊んでいるように見える子であっても、親の姿をいつも確認しているのが子どもです。親に見守られていることを知っている時にこそ、子どもは遊びに集中できる。自由でいることができる。それが子どもです。
自分を守ってくれる存在、そのままで受けとめてくれている存在がいるということ、大人の私たちが言葉で説明する前から、子どもはそのことをわきまえているのです。
ある牧師は「子どもは親の存在の向こうに、自然に神さまを見ているのではないでしょうか」と語っていました。
Ⅳ.強烈な神の愛
もう一度、聖書に戻りますが、主イエスは続けて語られます。「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」ここで主イエスは、「この子どものようになる」の前に「自分を低くして」とお語りになっています。
私たち日本人は「自分を低くする」のが得意だと言われます。それも必ずしも謙遜から出た態度ではない。心の中で、本当は自分の方が上だと思っていても「たいしたことはないです」とつい言ってしまいます。自慢したりすれば反感を買うので「謙遜に」振る舞う。すると周りの人が持ち上げてくれる。そうした処世術を主イエスはおっしゃっているのでしょうか。
聖書が教える謙遜とは、自分を大きく見せたり、逆に自分を卑下したりするのではなく、等身大の自分として生きる姿勢を意味します。私たちが謙遜になれるのは、あるがままの姿で神に愛されていることを実感できるときです。そのとき初めて心の自由を経験することができるのです。
聖書はそれを謙遜と呼びます。ここで主イエスが「自分を低くして子どものようになる」とは、まさに競争によって自分を証明する、その人生ゲームから「一抜けた」と宣言し、神の前に生きる者の姿でしょう。
私たちの目はいつも「大きな者」に向いてしまいます。逆に価値がないように見える「小さな存在」はなかなか視野に入って来ません。知らず知らずのうちに軽んじ、躓かせていることも多いかもしれません。
ですから、主イエスは強烈な言葉で警告を発せられます。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。…もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になって命にあずかる方がよい。」
でもある牧師は語っていました。こうした激しい言葉は裏を返せば、それほどまでに「小さな者」を愛されるという主の愛情表現なのではないか。同様に父なる神さまもそのような愛に満ちたお方であることを示しているのではないか、と。
「小さな者」1人ひとりに天使がついている。「小さな者」を守るようにして、天の父の御顔を仰いでいる。いわゆる「守護天使」ですが、新約聖書には、こうした守護天使が登場するのは稀です。主イエスこそが、そのように1人ひとりと共にいて守っておられるのです。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」お祈りいたします。