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主日共同の礼拝説教

あなたは大切な人です―貝を分かつ(貧しい)人は幸い

2019年4月14日
松本雅弘牧師
イザヤ書43章4節 マタイによる福音書5章1~12節

Ⅰ.エビと日本人

子どもの頃、「大好物は何?」と訊かれると、決まって「エビです」と答えました。でも、食べ過ぎてしまって、エビ・アレルギーになり、しばらく食べることが出来ない時期もありました。
実は、世界で一番たくさんのエビを食べているのは、日本だそうです。かつては、アジアの人々は小さな船で、小さな網で自分たちの食べる量だけのエビを獲っていましたが、いつか、日本のトロール船がやってきて大きな船から、巨大で頑丈な網を海の底に垂らして根こそぎ獲っていくようになったそうです。
量が少なく値段が高くなったエビは、アジアの人々の食卓にはのらなくなってしまいました。最近では、海のエビが取れなくなったのでお金持ちがマングローブの林を切り倒し、池を作り大量のエビを養殖しているそうです。
育ったところで、日本の人間用に、また小さく不ぞろいなものは日本のペット用に缶詰にされてみんな日本に売られていくのだそうです。
ですから、アジアの人々の食卓に、エビがのることはなく、そればかりか、洪水や高波を防いでくれたマングローブの林を切り倒してしまったために、そこに住む人々は洪水の多発によって大変な被害を受けているのだそうです。

Ⅱ.イエスさまの価値基準

今日の聖書は有名な箇所です。ここに「幸いである」という言い回しが何度も出て来ますが、その1つひとつの状態は必ずしも幸いとは思えません。むしろ、私たちの価値基準からしたら不幸な状態です。ですから、「心の貧しい人々、悲しむ人々が幸いである」ではなく、「豊かな人々、喜んでいる人々が幸いである」と言い換えた方がしっくりと来るのではないでしょうか。
私たち自身もそのような基準のなかに生きているのだと思います。そうした私たちって、幸せなのでしょうか?
ある青年が、友人20人に「おまえ、幸せ?」と訊いたところ、18人が「幸せ」って答えたそうです。この若者は「嬉しかった」と言っています。
ただ、「幸せじゃない」と答えた2人に理由を尋ねると、1人はバイクで事故を起こし、自分も怪我をしたからと答え、もう1人は、3カ月の内に2度も女の子に振られた、だから「幸せじゃない」と答えたそうです。私たちはどんな時に幸せって感じるでしょう?
今日の聖書個所、新共同訳聖書では小見出しに「幸い」とのタイトルが付いています。
ある人が、この「幸い」という文字をよく見ると「土」という漢字と通貨の「Yen」をあらわす記号「\」が重なり合っているように見えると言った言葉を思い出しました。
「土」とは土地のことです。「\」は勿論お金のこと。確かに一般の価値観では、どれだけ多くの土地(不動産)を持ち、どれだけ多くの\(お金)を稼げるかで、その値打ちが決まるということがあります。

Ⅲ.「キミが幸せになると、ボクも嬉しい」

転職情報誌のテレビコマーシャルに「キミが幸せになっても、だれも困らない」というキャッチコピーがありました。確かにそうです。
でも「キミが幸せになると、みんな嬉しい」という言葉だったとしたら、どうだろうかと思います。少し嘘っぽい感じがするでしょうか? というのは、他人の幸せを皆で喜ぶことの難しさを誰もが知っているからです。勿論、「キミが不幸になると、私は幸せだ」などと言われると、身もふたもありませんので、そんなことは誰も言いません。
このように、なかなか誰も他人のことにかまっていられないという状況があるのです。ですから、「キミが幸せになっても、だれも困らない」というのが、正に現実なのかもしれません。

Ⅳ.貝を分かつ人は幸い

イエスさまが言っている幸せ、今日の聖書に出てくる「幸い」というのは、少し様子が違います。
イエスさまは、「・・・人々は、幸いである」と繰り返し言われます。その「・・・という人々」とは「心の貧しい人」であり「悲しむ人」であり、「柔和な人」であり「義に飢え渇く人」であり、「憐れみ深い人」であり、「心の清い人」であり、「平和を実現する人」です。
もしかしたら、一般の基準からしたら、とくに幸せでも何でもない人たちかもしれません。あるいは私たちが考える幸せの条件とは違うものでしょう。でも、主イエスは、そういう人々が幸いだ、と言われるのです。
これら1つひとつを見ていくと、たとえば「心の貧しい人」とは、心の中に足りないものがあると感じている人という意味です。そして、それが何で幸せかと言えば、神さまが満たしてくださる、ということだからです。
「心の貧しい」とは、言い換えれば、「悲しむ人」であり、自分に力などないことを自覚しているが故に威張らない「柔和な人」であったりします。
そして、そういう人が何故幸せかと言えば、「そうした貧しさや、悲しみなどを通して、神さまにしていただける、神さまに触れていただける状態になるから幸せだ」と聖書は教えているのです。
私は、ニューヨークのリハビリテーション研究所の壁に書かれた、1人の患者さんが創った「病者の祈り」の詩を思い出しました。
大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった
より偉大なことができるように、健康を求めたのに、
よりよきことができるようにと病弱を与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった
人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに、
あらゆるものを喜べるようにと生命をさずかった

求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中に言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で、
最も豊かに祝福されたのだ

人生には四季があると言った人がいました。若い方たちは、春や、夏真っさかりで、ピンと来ないかもしれません。少し前の私もそうでした。でも先月還暦を迎えた途端に、目の前の景色が違って見え始めたのです。この詩に歌われている世界が現実味を帯びてくるように思います。
つまり本当の豊かさとは、1つひとつの出来事の中に、神さまの御手の働きを感じ取ることの出来る感性を持たせていただくことだと思うのです。
今日は「貝を分かつ人は幸い」という題にしました。「貝」は昔、お金として使われていました。
「貧しい」という漢字は、何か「貝を分かち合う」という風に書いた字のように読めます。主イエスは、持っている物を分かち合う時に、実は本当の幸せがやってくると教えておられるように読めるのです。
そのようにして、「豊か」という漢字を見ると、「まがった豆」と読めます。
いかがでしょう。八百屋さんに行って、曲がった形をした豆や大根と、真っ直ぐな豆や大根があればどちらを選びますか。普通は真っ直ぐの方を選ぶでしょう。
でも現実は、そう真っ直ぐなものばかりではないでしょう。ほとんどは曲がった物ばかり。でも、そこに本当の豊かさが隠されているのです。そこに豊かさや恵みを見つけることが出来るのは、本当の意味で心が豊かにされている時です。
CDを何枚も出しているミュージシャンの若者が、ある牧師と話しました。若者は涙を流し、「疲れた」とボソッと言ったそうです。フェースブックにちょっと写真やコメントを載せると、「いいね」が、50も60もあっという間につくほどの人気者です。そんな彼が、「自分は、うまく歌えていない、コンサートで成功しないと、自分が駄目なように思ってしまう」と話したのです。
その話を聞いた牧師は、主イエスの受洗の場面を彼にお話ししました。
ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた時、主が、そのお働きをする前に、すでに父なる神さまは、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたのことを喜んでいる」と言ってくださった。この出来事は、彼にも当てはまること。あなたは、神さまにとって大切な人なのだと、牧師は、彼に伝えたのです。
これは私たちにも当てはまります。神さまの瞳に映る私の姿を確認する時に、たとえ曲がった豆のように見えたとしても、神さまの瞳には、尊い豊かな者として映っているのです。
「あなたは大切な人です」。そこに本当の幸せ、本当の豊かさがあることを覚えましょう。
お祈りします