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主日共同の礼拝説教

大切なあなたへー水より大切なもの

和田一郎副牧師
2019年4月28日
ヨハネ福音書4章1-30節

1、来る日も来る日も

4月の最後の日曜日、新年度になってやっと新しい生活に慣れてきたと思っている人も、今度はゴールデンウィークです。今年は10連休という人もいるそうですね。そのような中で、今日みなさんは「命の水」を汲みに来たのではないでしょうか。世の中の人は、楽しい所に行くようです、そういう人がほとんどです。その一方で、あえてこの礼拝に来たというのは、意味があるのではないでしょうか。
昔、ユダヤにサマリアという地域がありました。ユダヤとサマリアは隣り合っていましたが、とても仲の悪い関係でした。ユダヤ人は、サマリア人を嫌っていたのです。しかし、この日ユダヤ人のイエス様は、あえてサマリアの町を通って旅をされました。正午ごろのことです。ユダヤの正午ごろは日差しが強くてとても暑い時間です。イエス様はそのサマリアの町はずれにある、井戸に座っていました。
そこへサマリアの女がやって来たのです。女はこんな暑い時間に水を汲みに来ました。実はこの女は、来る日も来る日も、このような時間に水を汲みに来ていました。それは人に会いたくなかったからです。もっと涼しい朝の時間は、他の人も水を汲みに来ますから井戸端で会話も生まれます。しかし、人には会いたくなかった。人目をはばかるような生き方をしてきたのです。このサマリアの女は5人の男の人と結婚していましたが、長続きせず、今一緒にいる男性も夫ではない、同棲しているだけでした。
「友達もいない」いや「友達はいらない」、自分には人付き合いなど必要ない。そうしている方が楽だと、そのような思いで生きていました。

2、出会い

水を汲みに来たその井戸に、ユダヤ人の男が座っていました。「自分たちを嫌っているユダヤ人、自分には関係ない」と、女が井戸の水を汲もうとしていると、なんとその男が話しかけてきました「水を飲ませてください」。あり得ないことでした。ユダヤ人がサマリア人に頼み事をするなんて。それに、男が女に、道端で声をかけるなんて、とんでもないという価値観が当時はあったのです。女は「どうして、ユダヤ人のあなたが、頼むのですか」と言いました。イエス様は「あなたが、私を何者なのか分かっていたら、あなたの方から私に頼み、私はあなたに、生きた水を与えたことであろう」と、不思議なことを言いました。「私に水を飲ませて欲しいと言ったのに、この人は水を与えるだって?」女には意味が分りません。しかし、イエス様は汲んでは無くなる水ではない、永遠の命に至る生きた水があると言ったのです。女は何かを感じました。さっきは「ユダヤ人のあなた」と言っていたのに、今度は「主よ」と呼びかけます。「主よ、その水をください」と。するとイエス様は水の話から話題を変えました。この女が人目をはばかって生きていること、結婚と離婚を繰り返してきた生活を見事に言い当てました。驚いたこの女は、今度は「あなたは預言者ですね」と目を見張って言います。預言者というのは将来を予告する人ではなくて、神様の言葉を語り神様に仕える人のことです。
女は、来る日も来る日も、ただ水を汲みに来ていました。人付き合いなどいらないから、生きていくために必要な物だけあればいい。信仰なんて、もうとっくに忘れてしまっていました。その忘れてしまっていた信仰が、イエス様とのやり取りの中で少しずつ湧き起こってきたのです。この人は神様の御言葉を語る人なのだろうか。女は「礼拝」という、忘れかけていた言葉が口からでました。「わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしていました」。そこでイエス様は、礼拝について語ります。本当の礼拝、真の礼拝をする時が来た。霊なる神様、真理の神様は人が作った神殿の中にだけいるのではないと言われました。そうです、霊と真理をもって礼拝する人を求めている神様は、ユダヤ人もサマリア人も、すべての人が真の礼拝ができるように、一人の人をこの地上に遣わしたのです。この女は「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが、いつかこの地上に来ることを知っています。その方は、わたしの一切のことを知らせてくれる」と言いました。つまり、自分は人目をはばかるような生き方をしてきたが、新しい命を生きるために必要な一切のことを教えてくれる、メシアと呼ばれる人が来られることを知っていますと、女は言ったのです。イエス様は「それは、あなたと話をしている、このわたしである」と言われました。
この女性は、水がめをそこに置いたまま町に戻って、人々に救い主であるメシアかもしれない人と出会ったと伝えたのです。驚くべきことです。人目をはばかって生きていた人が、人々に自分の言葉を信じてもらうために、必死になって伝えたのでしょう。町の人々は女の言葉を信じました。そして、イエス様のもとに来て、その言葉を聞き、サマリアの町に救いが広がりました。
そもそもこの女は水を汲みにきていました。しかし、もうそんなことはどうでもよくなったのです。水より大切な、信じるものが見つかった。イエス様との出会いがこの人の人生を変えたのです。イエス様の言葉がこの人を変えました。「ユダヤ人のあなた」と言っていた女が、「先生」「預言者」最後は「キリスト メシア」と呼び方が変わっていったように、イエス様の言葉は人の人生を変える力があります。イエス様の言葉が命の水です。イエス様の御言葉こそ、渇くことのない永遠の命の水です。

3、誰だって何かを崇拝している

私たちは、いつも井戸端にいるのかも知れません。井戸端で、永遠の命の水を求めるのか、それとも目先の飲み水だけを求めるのか。人はそれを選ぶことができます。人生においても、どちらかを選ぶことができます。いや、どちらかを選ぶことになります。
イエス様はおっしゃいました。「だれも、二人の主人に仕えることはできない」(マタイ福音書6章24節)。
日本人は神様の存在を信じない、無神論者がほとんどだと言われています。仏教を伝統として関わりを持っているが、実は無神論で神などいない、崇拝するものなどないと言われています。しかし、それは本当でしょうか。イエス様がおっしゃった「だれも、二人の主人に仕えることはできない」という言葉の真意は、逆に言えば、人は何かに仕えているということではないでしょうか。かならず何かを崇拝している、という事です。誰だって何かを崇拝しています。お金、名誉、美しさ、仕事であったり、恋愛、そして何よりも「自分」というものを崇拝しています。自分というものを第一にしています。普通に生きてきた人はそうです。生まれたままで、人に揉まれて、ただ自然に生きてきた人は自分が中心です。自分ファーストで生きています。
誰だって何かを崇拝している。なぜかというと、神様がそのように、人間を創造されたからです。なにかを崇拝する者として人を造られたからです。ですから問題は「何を崇拝すべきか」ということです。みなさんは、何をファーストにしているでしょうか。
私たち人間の性質で油断ならないのは、自分の中の「邪悪」といったものではありません。無意識というものが崇拝しているから厄介なのです。無意識のうちにお金や、名誉や自分がファーストになっています。来る日も来る日も水を汲むように、少しずつ何かへのファーストが心に深く沁み込んでいきます。それを守るために恐怖や屈辱、競争に勝たなければなりません。それらに勝つことができなかった人は、人目をはばかって生きるしか自分を守る術がありません。これは本当のことです。あのサマリアの女のように生きている人が、今の世の中にどれだけ沢山いるでしょうか。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と、井戸端で私たちは考えるのです。どちらの生き方を選ぶのか。あの井戸端で話しかけるイエス様の言葉を信じるか、聞き流して帰っていくのか。

4、神ファーストの日々

サマリアの女は、水おけを置いて、自分の生きる道を選びました。そして生きる目的が変わりました。この女の人は、翌日、水を汲みに来たでしょうか。もちろん汲みに来たでしょう。来る日も来る日も日常は続いていきます。しかし、まったくその生き方は変わりました。この町の人々と、第一のものを第一として、生活の中心に礼拝を置く生き方を見つけることができたのです。
平凡な日々の中で、何をファーストに生きるのか、人の人生はそれで決まるのです。
このサマリアでの出来事の最後に町の人たちが言います。
「わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に、世の救い主であると分かったからです」
(ヨハネ福音書4章42節)。
聖書の御言葉を聞いて、本当の救い主を礼拝していきましょう。お祈りをしましょう。