2019年5月5日
松本雅弘牧師
創世記3章20~24節 マタイによる福音書18章12~1414節
Ⅰ.小さなものを愛する主イエス
主イエスは「誰が一番偉いのか」と議論していた弟子たちの真ん中に、一人の子どもを立たせて、「わたしの名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ18:5)とお教えになりました。
主イエスの目は子どもから始まり、ともすると軽んじられがちな「小さな存在」に向けられます。だからこそ「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」(6節)と語り、「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。」(8節)と、非常に強い言葉で警告されるのです。それほどまでに主イエスは、「小さな者」を愛しておられたのです。
Ⅱ.見失った一匹の羊を捜し求める羊飼いのたとえ
そして、続く話が「迷い出た羊」のたとえです。ある人が羊を百匹もっていて一匹がいなくなった。そこで羊飼いは、九十九匹を山に残し、迷い出た羊を捜しに行ったというのです。
洗礼を受けて間もない頃の私は、このたとえ話がピンと来ませんでした。この時の羊飼いの判断は、必ずしも適切でないように思ったからです。
捜しに行っている間に、他の羊たちに別の問題が起こる可能性だってあります。この一匹が、問題を起こして迷子になったのなら自業自得でしょう。このように、次々と意見や批判が出てきますが、羊飼いは、それでも、いなくなってしまった羊を必死になって捜しまわるのです。
イスラエルの羊飼いは、一匹一匹に名前をつけ、その名前を呼びながら世話するのだそうです。羊飼いと羊は家族のような関係です。そうだとすれば、一匹の羊がいなくなれば、見つけるまで捜すのは当然です。この話を聞いていた人々は、うんうんとうなずいたと思うのです。
Ⅲ.見失われたものの大切さ
中高校生の頃、友達と比較して「自分なんて居ても居なくてもいいのではないか」と、思い悩んだことがあります。
しかし主イエスさまは、私たちのそうした心の叫びに、「そうではない! そんなことあり得ない!」、「あなたは、神さまから捜されているのだから。居ても居なくてもいいわけがない! あなたは居なければならない!」と訴えているのです。
「自分なんて…」と思う時、「価値のない私が何故生きなければならないのか」と悩む時、聖書は、あなたに答えます。「あなたは神さまに捜されているのだから、生きていなければならない」と。これがイエスさまの答えです。
これは本当に大事なことです。聖書の教える神への信仰とは何でしょう? ある人がこう言いました。「信仰とは、この自分も捜されている、主イエス・キリストによって神の愛のうちに捜されているのだということを認めること、受け容れること」だと。
自らを顧みて、自分は何て神さまから離れた生活をしているのだろうと思う方、自分が身を置いている所まで神さまが来てくれるはずもない、と考える方。あるいは、洗礼を受けてクリスチャンなのに、何度も何度も神さまが分らなくなると言う方もあるでしょう。
でも、そんな時に、今日の主イエスの物語、たとえ話を思い出していただきたいと思います。あなたを捜し続けておられる神さまがおられるのです。
Ⅳ.人間を探し求める神
今日の旧約聖書の朗読箇所に創世記第3章を選びました。ここにも、人間を探し求める神の姿が記されています。
エデンにおいてアダムとエバは神の言いつけに背きます。「絶対に食べてはいけない」と言われていた木の実を食べてしまったのです。アダムとエバは、取り返しのつかないことをしてしまったことに気づきました。
ところが創世記は、その彼らに神の方から近づいて行かれたことを伝えています。彼らに向かって「どこにいるのか」と呼びかけられるのです。さらに、神さまは、彼らが自分たちで用意したいちじくの葉よりもはるかに丈夫な皮の衣を作って着せたのです。
この時点で、人間の食物は野菜や果物、木の実です。とすれば皮の衣が作られたということは馴染みのない出来事です。たぶん自分たちの目の前で獣が屠られ、血が流される。その一部始終を見たのではないでしょうか。そのようにして取られた皮で、裸を覆う衣が作られ、着せられていく。そしてエデンの園から追放されるのです。
この時、主なる神は、「ああ、せいせいした。これでエデンの園も平和になった」と、思われたでしょうか。そうではないでしょう。心配で心配でしょうがなかったに違いありません。その証拠に、創世記を見ますと、エデンの園から彼らを追放した後、主なる神は自らのエデンの園を後に、人間をずっと追いかけたことが伝えられています。
それが創世記3章24節の言葉です。「こうしてアダムを追放し、命の木を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」
創世記3章24節は、人がエデンの園を出て後ろを振り返った時、エデンの東にケルビムときらめく剣の炎が見えた、と伝えていますが、ケルビムと炎とは、旧約聖書では主の臨在を示すものです。それによって人は主がそこにおられることを知るのです。
出エジプト記33章20節には、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」とありますが、これはモーセに語られた言葉です。
罪を犯しエデンの園を追われた人間は、この言葉の通りに、もはや、直接神を見ることができなくなっていたのです。
ケルビムと炎の存在を通して、かろうじて、人は神さまの臨在を知ることが出来るのです。
アダムを追放し、ケルビムときらめく剣の炎がエデンの園の外、東の方に見えたということは、人をエデンの園から追放された時、神さまもまた園の外に出られたことを示しているのです。神自らも、楽園を出て、人を追い求められたのです。
この礼拝で、何度かご紹介した神学者の小山晃佑先生が、こんなことを言っておられます。「だから聖書は、こんなに分厚いのです。もしもエデンの園で、神さまと人間の関係が終わっていたならば、聖書は最初の5ページで終わっていたでしょう。むしろ、そこから始まっていくのです。人間を探し求める神の物語が」と。
新約聖書のマタイ福音書に戻ります。今日、朗読した聖書の中で、マタイ福音書18章11節が抜けているのです。12節の上に十字架のマークがあるだけで、ここにあったはずの11節がありません。
18章11節の言葉は、「元々、マタイ福音書のオリジナル、原典には含まれている言葉ではなく、後代の人が何らかの理由で書き加えた可能性が高い」と専門家たちが判断して、ここから除いてしまったのです。
同じく、十字架のマークで示されている17章21節の時にお話ししましたが、現在、マタイが書いたマタイによる福音書のオリジナルは残っていません。「写本」と呼ばれる幾つものコピーが残っているのです。そして今でも、幾つもの「写本」を比較しながら、マタイ福音書の復元作業が行われています。その復元作業によって出来上がった原稿を「底本」と呼び、それが新しく出来上がると、それぞれの国に持ち帰り、新しい翻訳聖書が誕生します。
明日、明後日の2日間、中会牧師会の修養会が行われます。そこでのテーマの一つとして昨年末に刊行された、新しい翻訳聖書についての勉強会が持たれます。この新しい翻訳聖書でも、この18章11節は抜いてありました。
以前の文語訳聖書や口語訳聖書には含まれていた、この11節は、「マタイによる福音書」の最終頁に、付録として記されています。次のような言葉です。「人の子は、失われたものを救うために来た」。
マタイ福音書を書き写す作業に従事していた人(写字生)が、「『人の子は、失われたものを救うために来た』という一文を加えれば、もっと分かり易くなる」、そう考えて付け加えてしまったのではないかと言われています。
確かに、自分が九十九匹の中に居ると思っている時には、主イエスの、この話は心に響かないかもしれない。でも自分がこの迷子の羊と一緒だと思うと、心の奥まで届くのではないでしょうか。
神から離れた者、誰もが抱く問いかけ、「自分なんか、いてもいなくてもよい」という、心の奥底にある問いかけに対して、主イエスははっきりと「そうではない!」と断言されます。創世記の時から、そうです。初めからそうだった。
「あなたがいなくなったら、あなたを捜す方がいる。いや、あなたは今、すでに捜されている」。
私たちは、主イエス・キリストの、この神に捜され、見出された者である恵みを今朝、もう一度覚え、感謝したいと願います。お祈りします。