松本雅弘牧師
2019年5月12日
ヨハネによる福音書12章1~11節
Ⅰ.主イエスの眼差し
私たちは、多くの人に囲まれて生活していますから、時々、疲れを覚えることがありますね。
〈人は、私のことをどう思うだろうか〉などと考えると本当に窮屈な思いになるのではないでしょうか。そんな時に、自分自身に言い聞かせることがあります。それは、イエスさまは、私をどう見てくださるかということです。
何度か高座教会の礼拝に出席したことのある神学者の蓮見和男先生が、「悪魔の働き」についてこんなことを書いておられました。
「悪魔はいつも2つのレンズを持っているのです。1つは凸レンズ、もう1つは凹レンズです。凸レンズをあてると、ものが大きく見えます。反対に凹レンズをあてると、ものが小さく見えるのです。悪魔は、神さまの方に凹レンズをあて、神さまを小さく見せます。そして、現実の苦しみに凸レンズをあて、それを実際よりも大きく見せます。そしてささやくのです。『お前が信じている神は小さいぞ。今直面している困難はこんなに大きいぞ』と言い、わたしたちの勇気も信仰も砕いてしまいます。悪魔はこうして、ほえたける獅子のように食い尽くすべきものを求めています。」
本当にそうだ、と思います。私は、これを読みながらイエスの母マリアのことを思い出しました。彼女は、悪魔のレンズの代わりに神さまのレンズ(視点)をいただいていました。イエスを宿したマリアは「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます!」と高らかに賛美しました。
マリアの口から出た「あがめる」とはギリシャ語で「メガルノー」という語で、「メガホン(拡声器)」の語源となった言葉です。マリアは賛美を通して神さまを大きくしたのです。神さまがくださった恵みのレンズをもって一つひとつの出来事の中に、神さまの御手の働きを見ていたからです。
今日の聖書の箇所には、そうした主イエスの視点、主イエスの眼差しについて、とても大切なことが教えられています。それは「存在の喜び」ということです。ここに「ラザロ」という名前の1人の男の人が出てきます。彼はマリアとマルタという姉妹の弟で、ベタニアという村に住んでいました。
主イエスは彼らを愛し、よくその家庭を訪問したようです。今日の箇所の前の11章には、ラザロの病気が悪化して、心配したマリアとマルタが、主イエスに連絡を取ったことが記されています。しかし、主イエスが到着した時には、ラザロはすでに死んでしまっていたのです。墓まで来られた主イエスは「ラザロ、出て来なさい」と大きなで声で呼びかけられました。すると、手と足を布で巻かれたままの状態でラザロが墓から出てきたのです。
聖書によれば、ラザロという人物はある意味で「何もしない人」として伝えられています。「何もできない人」と言ってもよいかもしれません。とにかく彼は病人で、周りの世話を受けながら生きていた人だったようです。ラザロが語った言葉は、ひと言も聖書に記録されていません。ただ弱々しく死に、主イエスによって生き返されたものの、その後、何かをなしたという記録もないのです。
Ⅱ.あらすじ
この日、主イエスを自分の家に迎え入れたお姉さんのマルタは、せっせと食事作りに励んでいました。妹のマリアは高価で純粋な香油を持ってきて、主イエスの足に塗り、自分の髪の毛でぬぐっています。そうした中で、ラザロはただ主イエスと共に食事の席に着いた人々の中にじっと座っているだけでした。
当時のユダヤの習慣では、同じ食卓について一緒に食事をすることは、最も親しい間柄を示すことでした。相手を受け入れ、良い関係を築いていこうとするのが共同の食事の目的です。
でも、ラザロが積極的に主イエスとの関係を築く努力をしたかと言えば、そうではありません。ただじっと座っているだけ。そして、主イエスもそんなラザロに対して何もおっしゃいません。これまた興味深いことです。
私はこのところに、主イエスの眼差しを、主は私たちをどう見ておられるのか、ということを教えられるように思いました。主イエスは、ラザロを、ありのままに受け入れておられたということなのではないでしょうか。主は、ラザロの存在自体を喜んでおられたのです。
Ⅲ.聖書の価値観―存在しているから価値がある
ある時、主イエスはユダヤ人たちに向かって「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(ヨハネ5:39)」と言われました。
主イエスは、聖書をご自身がキリストであることを証言する書物として理解しておられたのです。そうだとしたら、今日の聖書の言葉を通して、私たちは、どのようなイエスさまと出会うのでしょう。
それは、人間は価値があるから存在しているのではなくて、存在しているから価値があるのだと、存在そのものを通して示されるイエスさまに出会うのではないでしょうか。
ここでイエスさまを歓迎するためにマルタは忙しく給仕しました。妹のマリアもナルドの香油をイエスの足に塗り、主に対する愛と感謝を表しています。マルタもマリアもそれぞれに「何か」をしています。ところがラザロは全くの脇役でした。接待で忙しくもしていませんし献身的に自らをささげてもいない。ただその場にいるだけです。
でも不思議なことに気づきました。「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。」(9節)と書かれているのです。
イエスがおられるのを知って人々がやって来ますが、彼らが見ようとしたのは、給仕に忙しいマルタでも、献身的な行為を捧げたマリアでもなく、主イエスと同じ食卓にただ座っているだけのラザロだったのです。その存在そのものの内に、実は驚くべきこと、真実なこと、主の御業の証しを見ていたからなのだと気づかされ、ハッとしたのです。私たちは出来ること、何かすることに思いを集中します。でも本当の意味で人々に影響をもたらし、インパクトを与えるのは、その人自身、その人の存在そのものだということです。今日の御言葉、ヨハネ福音書12章の主イエスの言動によって、私たちは価値があるから存在しているというよりも、存在しているから価値がある、意味があるから存在している。そうした神さまの深い御心を知らされるのではないでしょうか。
Ⅳ.ありのままの姿で生きる―存在の喜び
日々の生活の中で無力さを感じることがあります。宮沢賢治の『雨にも負けず、風にも負けず』ではありませんが、牧師として一生懸命お仕えしようと思いつつ、現実にはたくさんの足りなさや限界を覚えます。もっとこうしなければ、と焦ったりもします。でも、今日の聖書箇所を通して教えられるのは、イエスさまというお方は、何よりも私たちの存在を喜んでおられる、ということなのです。何かをしなくても、何かを語らなくても、ラザロのようにそこにいること、イエスさまによって死から命によみがえらされた自分の姿をそこに現すだけで、誰よりも復活の主の証人として生かされていることの事実を心に留めたいと思うのです。
ラザロ、マルタ、そしてマリアも、イエスさまの目に映った自らを大切にしました。神さまから愛されている自分、神さまから赦されている自分を受け止めていく時に、喜びが心の内側からフツフツと沸きあがってきたのです。
最後に、この「ラザロ」という名前ですが、その意味は、「神は助けたもう」という意味です。神さまは私たちを裁くお方ではなく、助ける神である。常に助けたいと願っておられる。そして助ける力をお持ちの神さまなのです。
自らの無力さを認め、助けを請う時に、そうした弱い存在である私を通し、神さまは豊かな力を証しされていく。
聖書は「光の子として歩きなさい」と教えます。聖書が語る「光の子」と言う時、その前提に主イエスこそがまことの光、ということがあります。つまり主イエスが太陽で、「光の子」である私たちは、言わば、その光を反射する月のような存在です。
その月のような存在である私たちが、「光の子」として生きるために必要なこと、それは光なるイエスさまの方を向いていること。私を喜んでおられる、楽しんでおられる、私を見て微笑んでおられる、そうした、主イエスさまの喜びに触れる時に、不思議と私の顔に輝きが生まれ、喜びの光を反射することができるのです。
ラザロって、そういう存在だった。光なる主イエスの前にじっとしていたからこそ、イエスさまの喜び、イエスさまの微笑みをラザロは感じ取ることが出来たのです。その結果、彼はその光を反射する存在として、大勢のユダヤ人たちが不思議がって見に来る存在として、イエスさまの素晴らしさを輝かせることができたのです。
ですからラザロのように、まずはイエスさまの愛と恵みの光を体いっぱいに受けるのです。何か出来る、何かすることだけを追い求める前に、できないことをも大事にしてくださる主イエスの愛、喜びに触れる。そして、それによって励ましを受けること。そうしたことを大切にしながら、この1週間を歩んで行きたいと願います。お祈りしましょう。