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主日共同の礼拝説教

命の道を歩む

松本雅弘牧師
2019年5月19日
詩編16編8~11節、コロサイ3章1~3節

Ⅰ.永遠の命とは何かと問われたら

毎年、高座教会ではイースターからペンテコステの間、すなわちキリストの復活を覚える復活節の間に「召天者記念礼拝」をささげ、召された方々のことを偲び、生と死ということを聖書からご一緒に考えながら、ご遺族をはじめ、私ども一人一人が神からまことの希望をいただき直す時を過ごしています。先ほども、昨年の召天者記念礼拝から、今年の召天者記念礼拝までに召された方たちのお名前を読み上げさせていただいたことです。Kさんのお名前が出ています。Kさんは奥様を2月に送られてその3カ月後にご自分も82歳で天に引っ越しをされました。Kさんは2004年、67歳の時に洗礼をお受けになっていますが、その時の思いを綴ったお証しに次のように書かれていました。「『牛にひかれて善光寺参り』ではありませんが、妻にひかれて教会へと昨年10月の特別歓迎礼拝に出席したのが教会との関わり合いのはじめでした。その後、主日礼拝を重ねるうちに、毎日の生活に安心感のような何か安らぎを覚えるようになってきました。…」礼拝に集うKさんの心に与えられた不思議な安らぎ。それを実感されました。そのKさんの一番好きな聖書の言葉がヨハネ3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここに永遠の命という言葉があります。主イエスを信じる時に永遠の命を得ると約束する御言葉です。ただここで永遠の命とは何のことですかと問われると意外に分かっているようで分かっていないことに気づくかもしれません今日はこの永遠の命の恵みについてご一緒に考えてみたいと思います。
ところで「永遠の命を信じます」と告白する聖書が教える信仰とは、誰もが死を経験するわけですが、しかし私たち人間存在は死んでお終いのものではないのだという告白でもあります。ただ1つ注意しなければならないことがあります。それは元々私たちに不死の性質や力があるから死でお終いでないというのではなく永遠の命とは神がお与えになったもの。神が永遠の命を与えてくださるから死でお終いではないのです。さらにそのためにこそ神はキリストの十字架と復活という出来事を起こされたのだと教えています。つまりキリストが死にキリストが復活させられたことによって初めて永遠の命に生きることが可能となった。キリストの十字架と復活なしには永遠の命はありえなかったというのが聖書の教えです。ただここでもう1つ重大な問題が生じます。それは永遠の命が与えられているのになぜ人は死ぬのかということです。

Ⅱ.永遠の命が与えられているのに、なぜ「死」があるのか

聖書はこの点について何を教えているのでしょうか。結論から言いますと、聖書が教えていることは人間が死ぬことによって自分が神に造られた被造物に過ぎないことを証しするということ。神によって始められた命だからこそ神による終わりもある。神は人間をあくまでも一時的なものとして、ほんの束の間のものとして造られたということです。ある神学者がこんなことを語っていました。私たちが「死にたくない死にたくない」と思い、そして「死後も存続するのだ、亡霊となってこの地上に影響を及ぼすのだ」、あるいはまた、「死んでも再び何かに生まれ変わって来るのだ」と死に対してうらみを持ちつつ死ぬとすれば、それは死ぬというよりは殺されるのと同じなのではないか、と。これを読んで、私は思わずうなずいてしまいました。もちろん、信仰を持っていれば死に直面しても取り乱すことはないとは言えないでしょう。誰もが生身の体を持つ者として不安を抱くのは当然です。ただそれでも私たちは聖書を通して、神がこの私を「限りある者」として造られたことを認め、その儚い私に永遠の命を与えてくださったことをも知る時、そこで初めてそのお方の御手に私自身を委ねることが出来る。それが信じる者に与えられている恵みだと思うのです。

Ⅲ.聖書から永遠の命について考える

こうした死の現実を踏まえた上で、次に聖書が約束する永遠の命について考えたいのです。それを示すのが今日の詩編16編にある御言葉です。詩人は「わたしは絶えず主に相対しています」とあります。心の目を開き神がこの私の人生の同伴者である、そうした意識をもって生きる詩人の姿が出ています。すると次に不思議な経験に出くわす。神を意識して歩む時に、その神が私を守るために、なんと私の「右に」いてくださるという経験です。この「右に」とは保護者を表わす言葉です。一般に右手は利き手ですから敵が来た時に向かってくる敵に対して剣を取る手が右手です。その右に立たれたら私はそれを動かせない。ですから右に立っているお方が決して害を加えないと信じていることの表れでもあります。それどころかその方は御自分の左手に盾をもって保護し右手に剣をもって敵から私を守る。神をこのような保護者として信じることは一番の力となるのです。そして私たちの生活に襲いかかる困難、あるいは敵のなかでも、たぶん一番の敵は「死」でしょう。詩人は最大の敵である死に対しても神は保護者として私の右に立ってくださり勝利してくださるのだと告白します。ただその勝利とは次々と奇跡を起こし死を遠ざけてくださるのではなく死に直面しても心を乱されず静かに忍耐強く対処できる心をお与えくださるということでしょう。そして正に死が襲いかかろうとするその時が来たとしても命を始められたお方は命に終止符を打たれる方でもありますからそれが御心であるならば私はそれに従いますという姿勢をも与えてくださる。「わたしは揺らぐことがありません」とはそのような意味の言葉です。さらに「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います」とありますが、これは笑いが止まらない愉快でたまらないという喜びではなく内面が強められた者の静かで落ち着きのある平安を表わす言葉です。神によるこうした平安を土台に詩編記者は永遠の命を与えられている幸いを歌い上げているのです。「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」
神を自分の前に置きその方が右にいて保護してくださる。そうした経験を日常生活において重ねているので、その方から私たちを引き離し陰府や墓に放っておくことなどなさるはずがない、だからこそ自分は心安んじていられるのだと告白しています。つまり日常こうした神との交わりを経験する者は肉体の死によってその方との交わりが断たれてしまうとはどうしても思えない。たとえ永遠の命について詳しいことが分からなかったとしても、神は私を裏切ったりするお方ではないという確信を持つことが出来る、そうした確信です。「陰府」とは、ふつう死者がくだる暗い空しいところで、そこでは神との交わりが断たれると考えられていました。「墓」もまた「陰府」とほとんど同じ意味に用いられています。「あなたの慈しみに生きる者」に神は肉体的な死を経験させないということを言っているのではなく、例え死を経験したとしても神から引き離された暗い空しい状態の中に放っておくことはなさらないという告白です。言葉を変えれば「命の道を教えてくださいます」という確信へと引き上げられていく。以前使っていた聖書では「命の道を示される」と訳されていますが、まさにこういう状態こそが実は聖書の教える永遠の命に与っている状態。とこしえの神と共にある永遠の命の道を教えられ、歩むことにほかならないのです。ですから、このような人こそ、肉体的に死に行く時でも、「命の道」を歩んでいるのであり、そこには満足、祝福、喜びがある。9節で触れましたように静かな落ち着きがあるのです。

Ⅳ.「命への道」をゆく者となりなさい

聖書は永遠の命とは何かを知るために死後の状態を色々と詮索することを勧めていません。むしろ永遠の命とは何かを知りたい人は生きている時から、すなわち、今、この時から、神を自分の前に置いて生きるように、と勧める。神が、自分の右に居ます保護者であることを覚えるように、と説くのです。そのようにして、神を自分の前に置いて生き、神の保護を経験させられるたびに、この地上に居ながら、永遠の命の約束を確かなものとされていく。そういう人は、たとえ死にゆくときでも安らかに満たされるのだ、そういう「命への道」を行く者であれ、それこそがまことの「終就」となると聖書は告げているのです。お祈りします。