カテゴリー
主日共同の礼拝説教

イエスはここにおられる

松本雅弘牧師
2019年6月2日
詩編94編1~19節、 マタイによる福音書18章15~20節

Ⅰ.主イエスはほんとうに生きておられる?

高校2年生の11月、生まれて初めて礼拝というものに参加した時のこと、同世代の高校生がギターを弾きながら、「豊かな人生の条件」というゴスペルを賛美したのです。その歌詞に私の心が捕えられたことを今でも鮮明に思い出します。
そして、翌日の月曜日の朝、学校に向かって歩きながら、一緒にいたクラスメートに「イエスが、枕もとに現れたら、信じられるかもしれない」と話したら、「松本、お前、それじゃ幽霊と一緒じゃん」と言って大笑いしたことを覚えています。
でも、翌週から、欠かさず礼拝に通い始めましたので、あの日、礼拝に出席したことが、私の中で強烈な経験であったことは確かでした。
しかしもう一方で、私にはどうしても確かめたいことがあったのです。それは、主イエスがほんとうに生きておられるのか、ということでした。歴史の教科書で、イエス・キリストは確かに歴史上の人物であったことは知っていました。2千年前に、現在のパレスチナの地に実在し、最後には裁判にかけられ、十字架で処刑されて終わった人間であるということも知識として持っていました。
ただ誤解を恐れずに言えば、そうした知識だけでは、私たちの救いに対して何の関係も起こらないのです。私たちにとって本当に大切なこと、ひと言で言うならば、それは主イエスが今も生きておられるという確信なのではないでしょうか。

Ⅱ.イエスがここにおられることを求めて

礼拝に通い始めた私たちが直面する問題はイエス・キリストが実在の人物かどうかとかといったことではありません。私たちにとっていちばん大切なことは、その主イエスが今も生きておられ私たちを愛していてくださり、そのお方の愛を実感できるということなのです。ところが、洗礼を受けてしばらくすると、その恵みの現実が当たり前になってしまうことがあるように思います。
この礼拝堂をリニューアルするにあたって、牧師として心の中にあった願いの1つは、「イエスがここにおられる」、主の臨在を覚える礼拝空間ということでした。
そのために色々な工夫をしました。そうした中で「エマオへの道」という廊下を作ることになりました。
イースターの礼拝で、エマオへの道を歩く2人の弟子たち、クレオパとその妻のお話をしました。あの日、エマオへの道を歩く2人に、復活の主が御言葉を説き明かし、食卓でパンを裂いて、ご自身を現わしてくださったのです。私たちも、それと同様の恵みを求めて、毎週主日に、ここにおられる主イエスにお会いするために、「エマオへの道」を通りながら礼拝堂に進むのです。
でも主が臨在される、主が生きておられるということは、どんなに工夫し、神秘的な空間を作ったとしても、それだけで、主イエスが今ここにおられることを証明するのは難しいのです。
日曜日の朝、礼拝堂に来ますと結構なにぎやかさです。ここにおられる主イエスをそっちのけで、礼拝開始10分前になってもザワザワ感があります。1週間ぶりに再会できた嬉しさもあります。時折、私も前奏が鳴る直前まで奉仕の連絡などをしてしまいます。
せっかく「エマオへの道」を通って礼拝堂に入って来たにもかかわらず、今、ここに主イエスがおられることへ私たちを導き、今、ここに主がおられることの証明にはなっていないのです。

Ⅲ.主イエスの約束の言葉を信じる

こんな経験をしたことがあります。クリスチャンになった後、一生懸命に聖書を読み、祈りを捧げ、信仰書を読み、教会の奉仕に参加する。ところが、ある時、ふと虚しい思いになったのです。
こんなことをしていて意味があるのだろうか、と思ったからです。礼拝の時間に遅れないようにと、汗をかきかきやって来る。でも、いったい、これはなんのためだろうかと思って、立ちどまってしまうような経験です。
そのような時、何とかしてその虚しさ、その心の空洞を、何かで埋めようとする誘惑に襲われてしまいます。そしてその結果、信仰生活に刺激を求めようと、教会の中に刺激的な集会が増えて来ることもあるのです。何か新しいものを捜そうとする。そうした誘惑はないでしょうか?
今日の聖書の箇所はまさに、そうした私たちに、とても大切な導きを指し示す御言葉です。主イエスにいたる道がある、非常に確かな道があるのだということを、私たちに指し示しているのです。
主イエスの約束の言葉を信じる、ということを、
今日与えられた聖書個所、マタイ福音書18章から見ていきたいと思います。
この18章は昔から「教会憲章」と呼ばれ、教会に関するとても大切な主イエスの教えがまとめて出て来る箇所です。
今日は、その中の20節に注目したいと思います。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」ここに重要な1つの約束が出て来ます。主イエスは、そのように約束してくださっているのです。
ここに、「その中にいる」と訳されている言葉が出て来ますが、原文のギリシャ語では、「真ん中にいる」という意味の言葉です。
「わたしはその真ん中にいる」。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその真ん中にいるのである」と主イエスはおっしゃったのです。
「真ん中」とは、そこにいる誰からも等距離、誰に対しても一番近く、まさに、真ん中にイエスはいてくださるという約束なのです。

Ⅳ.イエスはここにおられる

ど真ん中に「わたしもいる」と言って、イエスさまがここにいてくださるのです。「わたしは、あなたがたのど真ん中にいる」。この恵みの現実は、私にとって、私たちにとって、どれだけ力となるのでしょうか?!
この恵みの現実を心の目、信仰の目をもってしっかりと見て行く時に、私たちの礼拝、私たちの信仰生活は、どのように変化してくるでしょう?
窓の外を眺めると、木の枝に風があたって揺れているのを見ることが出来ます。私たちが信仰の目をもって周囲を見て行く時に、これと同じような経験をいたします。
キリストの霊である聖霊の風が吹き、その風にあたってその人の内に変化が起こるのです。
今日はこの後、洗礼式が行われますが、8回の勉強会をご一緒しますと、参加者の中に確実に聖霊の風があたっている様子を目の当たりにする恵みをいただきます。配布された「証し集」もそうした聖霊の働きの生きた証言でしょう。
勉強会の最初には教会の聖書を持って参加していた人が、ある時点で新品の聖書をもって勉強会に来るのです。しばらくして聖書にカバーがかけられていく。それは窓から木の枝に風があたって揺れているのを見るような経験です。
私が教会に行き始めた時の教会学校の先生は両親にも良い感化を与えてくださいました。私の家はクリスチャンホームではありませんでしたので両親は私の受洗を大反対しました。キリスト教のことなど全く分からず心配したからだと思います。
しかし息子がお世話になっている。親として感謝を表したいと思ったのでしょう。高等科の仲間と先生方を、家にお呼びして共に食事をしたいと言い出したのです。夏休みのある日、教会のあった小金井から、実家のある押上までわざわざ来てくれたことがありました。その日、仕事のある先生は参加できません。ところが食事を始めてしばらくすると、ひょっこりと現れ、お菓子の包みを置くとすぐに戻っていかれたのです。当時、お勤め先は新宿で、昼休みを利用して、わざわざ押上までやって来られたのです。両親はとても感激していました。キリスト教は分からないけれど、教会の人はどこか違う。両親の心がイエスさまに開かれていくきっかけとなった出来事でした。
キリストの霊である聖霊の風が吹き、風にあたったその方を神さまが用いられたのだと思います。その25年後、両親はそろって主イエスを受け入れ、洗礼へと導かれました。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」2人でも3人でもよいのです。「わたしの名によって集まるところに、わたしもその真ん中にいる」。
これは主イエスの言葉、主イエスの約束です。この約束を信じて、今日も礼拝を捧げているのです。今年私たちは、「私たち、集い喜び分かち合う」というテーマを掲げて歩んでいます。今、このように集う私たちの真ん中、只中に、主が共におられるのです。
その揺るがぬ現実、ここに生きて働いておられる主イエスを目の当たりにしながら歩んでいきたいと願います。主イエスは今、ここにおられます! お祈りいたします。