松本雅弘牧師
2019年6月9日
ペンテコステ礼拝
エゼキエル書37章1~10節 使徒言行録2章42~47節
Ⅰ.ペンテコステの恵みにあずかるために
ペンテコステ、おめでとうございます。2千年前のこの日にキリストを信じる弟子たちに聖霊が降り、私たち教会が神殿となった出来事がペンテコステの出来事です。主のご臨在なさる場がエルサレムの誇る神殿ではなく、キリストを主と信じる教会という共同体、教会に繋がる私たち一人ひとりが、主が共におられる神殿となったのです。
Ⅱ.聖霊を宿す神殿となった私たち
イエス・キリストを信じ、私たちは洗礼を受けました。それは私たちの内側に聖霊なる神さまが住んでくださる神殿となったということです。そのように私たち自身が聖霊を宿す神殿になったという事実を今朝もう一度覚え、味わいたいと思います。
パウロは、聖霊を与えられている現実を、その手紙の中で繰り返し説いています。
エフェソの信徒への手紙の1章にこういう御言葉があります。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェソ1:13-14)
これがペンテコステ以降の私たちの現実、聖霊が宿っている、ということです。ところが、私たちの内に、すでに聖霊をいただいているにもかかわらず、そのことに心の目が開かれていない状況があります。パウロは、そのことについてこんなことを語っています。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19-20)
パウロは、第1に、私たちが真に救われクリスチャンとなっているのなら、聖霊が宿ってくださっているという霊的現実があることを教えます。第2に、そのような現実があるにもかかわらず、聖霊を宿す神の宮になったという霊的な現実に、私たちの心の目が開かれていないということを語るのです。
数年前のクリスチャン新聞の統計によれば、日本のクリスチャンの平均寿命は3年弱だと言うのです。大変ショッキングな事実です。洗礼を受けて3年経つと色々な理由で教会を離れてしまう。「卒業クリスチャン」という言葉が日本のキリスト教界にはあるほどです。
それほどに、サタンの誘惑は強く巧みであるということ。サタンは神さまから私たちを引き離そうと躍起である、ということでしょう。
イエスさまも、洗礼を受け、聖霊が降り、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:7)という天からの声を聞くという大きな経験をされた直後、サタンの誘惑を受けました。イエスさまさえもサタンの誘惑にあったのです。
では、どうしたらよいのでしょうか。それは、「ぶどうの木につながり続ける」という大原則にいつも立ち帰ることです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5)と主が言われているからです。
聖霊をお与えになった後、神さまが私たちに願っておられることは、聖霊の命が私の内側に生活の様々な場面で大きくなるような方向を歩み続けていくということです。
では、そのためにはどうしたらよいでしょうか。ペトロはこの点について次のように語っています。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(Ⅰペトロ2:2)混じりけのない霊の乳で、空っぽの心を満たすということでしょう。その直前の1節に、「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、」とあるのです。「みな捨て去って」心の中にスペースを作るということ。そして聖霊にとって代わっていただくためです。
そのために私たちは、今のありのままの姿で主の御前に出て、祈ることから始めること。そして、祈りつつ御言葉の水を注ぐことです。
「主よ、私の中にこのような問題があります。私の中にこのような欲深さもあります。私の中にこのような怒りもあります。私の中にこのような傷もあります。聖霊なる神さま、どうぞ働いてください。そして、私の中の空間を聖霊で満たしてください。私の持っている偽りと罪を全て追い出してください。」と祈っていくのです。
Ⅲ.ぶどうの木につながれば実を結ぶ
ペンテコステの出来事の中で、聖霊が臨んだ彼らの様子を、何か奇妙なものでも見るかのように、少し距離を置いて観察していたエルサレムのユダヤ人に向かって、この時ペトロは説教しました。
その中で、この出来事は、旧約聖書のヨエル書の預言の成就であることを人々に伝えました。
「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(ヨエル2:17)
聖霊が降ると、「あなたたち」を基点に、「あなたたちの息子と娘」、「若者」、そして「老人」と4世代の者たちが聖霊によって熱心に主を証しする共同体になるとの約束が語られています。聖霊が降ると、「4世代からなる教会」が形成される、というのです。さらに、その「4世代からなる教会」の日常生活の姿が使徒言行録2章40節以下に出てきます。
聖霊降臨によって誕生したキリストの教会は、まさに「信仰生活の5つの基本」を土台に「高座教会の3つのめざすもの」に現された、主からの使命に生かされた延長線上にある教会の姿であることを改めて教えられます。この恵みは、あの2千年前のペンテコステの日に誕生したエルサレム教会ばかりではなく、同じ聖霊なる神さまを内側に宿す私たち「高座教会」にも現れる恵みであることを、今朝、もう一度、覚えたいと思うのです。
ここで注意したいことがあります。使徒言行録の著者ルカは、ペンテコステの日に聖霊を宿した群れの様子をレポートして、「教会はこうあるべきだ、クリスチャンはこうでなければならない」と主張しているのではありません。聖霊降臨の結果を淡々と報告しているのです。
神さまは、私たちがイエスさまの弟子として生かされるために、聖霊をくださっているのです。聖霊に導かれ、「もしイエスさまが私だったら、きっとこのように私の人生を生きるだろう」という日常的な生き方を、聖書を通して学ぶのです。弟子にとっての日常的な生き方こそ「信仰生活の基本」なのです。そして、「信仰生活の基本」を通して、ぶどうの木であるキリストに繋がり続けるということです。
Ⅳ.使徒言行録2章の教会と私たち
ぶどうの木であるキリストにつながり、キリストとの関係が回復し、親しい交わりの中で聖霊の満たしを受ける。このことこそ、神さまが私たちを導く導き方です。入り口は、私たちをまず、神さまとの生きた関係に招くということです。断絶していた関係をキリストの十字架によって回復し、神様につながれていくのです。
祝福された信仰生活の大原則は「神さまのために何かしてやろう」とか「立派なクリスチャンにならなければ」というようなところから出発しません。まずイエスさまと親しい交わりに入るところがスタートです。
ある時、仮庵の祭に集まっていた人々に対して、「イエスは立ち上がって大声で言われた」とヨハネ福音書に出てきます。
祭が盛り上がり、みんな興奮していたのでしょう。祭りやイベントで盛り上がりますが、その後、どっと疲れが押し寄せることがあります。主はそれをご存知でした。そうした彼らに聞こえるように、主イエスは、「『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)と言われたのです。
ですから私たちは、このお方の招きに応えることです。使徒言行録2章に紹介されているエルサレム教会は生き生きしていましたが最初からそうだったのではありません。いただいた聖霊に満たされるためにぶどうの木であるイエスさまにつながっていったのです。そのようにして「恵みの循環」が始まっていきました。
私たちも同じ聖霊をいただいている教会です。この聖霊の命がいよいよ成長し、この地域の人々に福音をもって仕え、キリストの福音で満たすために、私たち一人ひとりが「信仰生活の5つの基本」を通してキリストに結ばれて生きていきたいと願います。お祈りします。