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主日共同の礼拝説教

兄弟の回復のために

松本雅弘牧師
2019年6月16日
詩編32編1~11節 マタイによる福音書18章15~20節

Ⅰ.「教会憲章」としてのマタイ福音書18章

マタイ18章は、昔から「教会憲章」と呼ばれ、主イエスが教会について語った数少ない箇所の1つです。主イエスが「教会」という言葉を使ったのはこの箇所とマタイ福音書16章だけです。
「教会憲章」と呼ばれるマタイ福音書18章の最大のポイントは、15節からの「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、」という語り出しで始まる今日の箇所、主イエスのみ言葉です。ここで、主イエスが取り上げた話題は、罪の問題でした。宣教のあり方でも、礼拝についてでもありません。教会に罪を犯した人がいたら、その罪をどのように扱うのか、そのことを主イエスは語るのです。
神学生の時、授業でこんな話を聞きました。あるアメリカの教会で、罪を犯した教会員に対して小会が訓練を執行し、そして、それを週報で報告しました。すると、その教会員は名誉を著しく毀損されたとの理由から、教会を相手取り裁判を起こしたという話です。
裁判所がどのような判決を下したかについては覚えておりませんが、その話をしてくださった先生の論点は、同じ土俵にあったとしても、同じ価値基準を共有していない人に対して、訓練を執行しても、された方は痛くもかゆくもないのだということでした。
そのような現実がある中で、それでもなお歴史の教会は、中でもカンバーランド長老教会のような改革派長老派の教会は、「教会訓練」を重んじてきたのです。なぜでしょうか。それは、今日の箇所に出て来る主イエスの言葉を重んじ、それに従って罪の問題を重視したからです。

Ⅱ.兄弟があなたに対して罪を犯したならば

主イエスは言われます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」
分かり易く言うならば、「あなたがしていることは罪です」と伝え、そのことを明らかにして、何が正しく、どうすることが正しいのかを伝えてあげるように、と主イエスはおっしゃるのです。
いかがでしょう。罪の話題はともすると避けてしまいたいものです。実際、この問題の取り扱いはとてもやっかいで、時には「牧会的配慮」という言葉で丸く収めてしまうことがあります。「時が解決する」という言い方でそのまま放置することもあるでしょう。ただ聖書と真剣に向き合う時、このことはキリスト教の核心と深く関係しているのです。何故なら、このために主イエスが十字架におかかりになったからです。
イザヤは礼拝の中で主なる神を仰ぎました。そして、神の光の中に自らの罪深さを照らしだされる経験をしました。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。…国は国に向かって剣を挙げず/もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(イザヤ2:4-5)
自分自身の罪とどれだけ真摯に向き合っているか。聖なる神の前に立つ経験をどれだけしてきたか、姿勢を問われる信仰者としての体験かも知れません。
主イエスは、今日の個所で「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、」と語っています。「兄弟」とありますから、信仰の仲間、教会の仲間でしょう。その仲間が「あなたに対して」ですから、この私に対して罪を犯した場合、あなたはどうするのかと、イエスさまは言われるのです。
たとえば、教会の仲間によって傷つけられた場合を考えてみましょう。自分は被害者ですから、私の側に相手を糾弾する権利があると考えることがあります。あるいはまた、私が我慢すればそれで済むことだから我慢しましょうと考える場合もあるでしょう。でも、主イエスが言われるのはそういうことではないのです。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」と言われたのです。これはどういうことでしょうか。

Ⅲ.神の赦しの中に生きる

この時点で、忘れてはならないことがあります。それは主イエスの眼差しがどこに注がれているかということです。主の眼差しは害を被った私に注がれるのは勿論ですが、それ以上に罪を犯したその人に向けられるのではないでしょうか。
この箇所で、罪という言葉が出て来ます。この罪が何であるかは分かりません。直前の14節に大切な主イエスのお言葉があります。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
この御言葉によれば、ここでは滅びが問題にされているのです。このみ言葉に続いて15節が語られています。つまり、この罪はその人を滅ぼす、人を滅ぼすような罪がここでは問題にされているのです。その人が滅ぶことを主は願っておられないのです。
今日の箇所に続く18章21節以下には、“「仲間を赦さない家来」のたとえ”が語られます。今日の主イエスの言葉を聞いたペトロが、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と質問したのです。それに対して主は、「七回どころか、七の七十倍まで赦しなさい」とお答えになりました。
さらに続けて、一万タラントンもの巨額な借金を帳消しにしてもらった僕の話をなさったのです。14節の「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」という主イエスのお言葉と、21節から始まる“「仲間を赦さない家来」のたとえ”に、挟まれるようにして語られたのが、今日の15節からの主イエスの教えです。
迷い出た羊を追い続ける主の忍耐強い愛、そして私たちの負債をすべて帳消しにするほどの犠牲的愛、その愛が、滅びに値するような罪を犯した、取るに足りない小さな者に向けられているのです。
今年の活動の主題は「私たち、集い喜び分かち合う」です。ある牧師がこんなことを語っていました。「そもそも私たちがキリストの体なる教会に加えられ、このように集まることが出来るのは、お互いに信頼し合っているからでもなくお互いをよく知り合っているからでもなく、お互いが善人だからでもなく、ただ主が私たち1人ひとりを赦してくださっているからという1点にかかっている。みんな一人ひとりを赦してくださるからです。だから聖餐にあずかるより他ない。だから十字架を掲げ、それを仰ぎ見るより他ない。他に掲げるべきしるしを教会は持たないのです。」
本当にそうだなと思いました。私たち教会がこうした主イエスの赦しの愛に支えられ生かされているのであれば、その主イエスの赦しに背く罪を無関心のままに放置しておくことはできません。その人の救いがかかっているからです。

Ⅳ.兄弟の回復は神にとっての喜びの出来事

15節に戻り、「二人だけのところで忠告しなさい」とおっしゃるのは何故か、この意味について考えてみたいと思います。主は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(20節)とお語りになりました。主が共にいてくださるために2人になるということです。信仰者と信仰者ふたりがこうべを垂れ、そこにおられる主イエスに向かって願う。自分たちの罪について嘆き、罪を告白する。そのところに、十字架の贖いをしてくださる主がいて、祈りに答えてくださるというのです。仲間の告白を私が聞くのではありません。主イエスさまが聞き、赦しを宣言される。主イエスの十字架の他に罪の赦しはないからです。
カトリック教会には「赦しの秘跡」といわれる聖礼典があります。告解と言って、定期的に司祭に罪を告白し、聞いていただき司祭に赦しを宣言してもらうことで、罪が赦されるという聖礼典です。これはまさに、今日のこの箇所の実践です。
では私たちのプロテスタント教会はこの恵みにどのように与るのでしょう。実は、それが礼拝の前半のプログラム、罪の告白の祈り、黙祷、そして赦しの宣言です。礼拝こそが「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」、「わたしもその中にいる」と約束された時と場です。その礼拝に招かれ、「罪の告白の祈り」に導かれ、各自が主に罪の告白をする。そして牧師が「赦しの確証」、つまり赦しの宣言をするのです。そのように、私たちは罪の赦しの恵みをいただくのです。
主イエスは言われます。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:7)
兄弟を回復すること。私自身も罪と向き合い、罪の赦しをいただく時に、私たちは回復されるのです。そしてそのことが神の心に大きな喜びをもたらすものとなる。その時の神さまの御顔はどのようでしょうか? 私たちをご覧になって怒っておられるのではないのです。困ったなぁと、悲しい顔で見ておられるのでもありません。微笑み喜んで私を見ておられる。その喜びに溢れる神さまの御顔を仰ぐ時、私たちの心にも喜びがもたらされる。一人の罪人が回復されるということは、そうした喜びの出来事なのです。
お祈りいたします。