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主日共同の礼拝説教

赦しとは私たちが変えられること

松本雅弘牧師
2019年7月7日
申命記24章17~22節 マタイによる福音書18章21~35節

Ⅰ.たとえが語られた背景

マタイ福音書17章では、主イエスとペトロが仲よく話をしています。それを知った他の弟子たちは、ペトロが主イエスから特別視されていると思い、そこで、「『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』」(18:1)と聞いています。それに対して主イエスは小さい者の大切さ、その小さい者を躓かせる人の罪についてお語りになりました。これが18章の始まりです。

Ⅱ.何回赦すべきでしょうか?

罪に対する主イエスの赦しの教えを聞いたペトロは、3度までは赦すようにという、当時のラビたちの教えを上回るように、7度まで赦せばいいですかと、主に尋ねます。しかし、意外な答えが返ってきました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22節)。
この7の70倍を計算しますと490回となります。ここで主イエスが言わんとしていることは、どこまで我慢すればよいかではありませんでした。主イエスは、それをペトロに悟らせようと、ひとつのたとえをお話になりました。「仲間を赦さない家来のたとえ話」でした。

Ⅲ.仲間を赦さない家来のたとえ話

主君が家来に1万タラントンのお金を貸していました。これは想像を超えるような額です。
次に百デナリオンの借金が出て来ますが、こちらは想像がつきます。1デナリオンは当時の労働者1日分の賃金に相当します。1日分の賃金を5千円と計算すれば百デナリオンは50万円の借金です。では最初に出てくる1万タラントンの借金とはどのくらいの額なのでしょうか。
計算してみると3千億円になりました。1人の人間が働いて返せる額ではありません。ちなみに当時のガリラヤの領主ヘロデの年収が5百タラントンと言われます。この時、家来が王さまにしていた1万タラントンと言う借金の額がどれだけ膨大なものなのか、よく分かるように思います。それに対して、百デナリオンは60万分の1です。
イエスさまが語るたとえ話に出てくる「主君」とは、神さまをたとえているのでしょう。そのお方に対する人間の罪、負い目は、私たちが一生か
かって努力し、つぐなおうと頑張ったとしてもつぐない切れないほどのものです。にもかかわらず、神さまは私たちを赦してくださっているのです。このたとえ話をお語りになりながら、イエスさまはそうした私たちと神さまとの不釣り合いな関係を思い起こさせています。
では、このたとえ話の筋を追ってみたいと思います。まず、最初の場面は1万タラントンの借金をしている家来が、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに頼む処から始まります。主君はその家来を憐れに思い、彼を赦し、借金を帳消しにしてやったというのです。赦された家来は心の中で「やったー」と両腕を突き上げたことでしょう。彼は喜び踊るような心を抑えながら、主君の前から退席し、街に出たのです。するとそこで、自分がお金を貸している仲間に出会います。貸している金額は百デナリオン。先ほどの計算によれば50万円です。今、赦されてきたこの家来がどうしたかというと、主イエスは次のようにお語りになりました。
「ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。」
確かに50万円も結構な額です。でも一生懸命働けば返せない額ではありません。このように私たち人間同士の負い目は、神さまに対する負い目に比べたら、その程度のものであるということを、ここでは暗に示しているのでしょう。
そして最後の場面に移ります。牢屋に入れられた人の友人が主君に全てを打ち明け「何とかしてください」と直訴したのです。すると主君は再びその家来を呼びつけて、「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(32-33)と怒って、その家来を牢屋に投げ入れたという話です。
このたとえにはどんな意味が込められているのでしょうか。単純に、この家来のしたことの良し悪しを問いかけておられるのではないことは明らかだと思います。たとえ話を聞いているペトロや他の弟子たちが、この物語を聴くことで、これこそがあなたがたのこと、常日頃、あなたがたの心の中に動いている物語なのですよ、とおっしゃりたかったのではないではないかと思います。
『エクササイズ』の言葉を使うならば、イエスさまは、私たちの心の中にある「偽りの物語」に気づかせようとなさったのです。赦されている実感がないのです。だから他人を赦すことができない。そうした悲しい現実が、私たちの現実ではないでしょうか。
今日も礼拝の中で「主の祈り」を祈ります。そこには「私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しますから」という祈りの言葉があります。
この願いのベースにあることは、神さまが私たちを赦してくださることと、私たちが誰かを赦すということは、切っても切り離せない関係にある、セットであるということでしょう。私たちが心に留めるべきこと、それは、神の愛は無条件の愛だということ。たとえ話の主君が、この家来を赦してやった時、何の条件も制限もつけなかったという事実です。そして、想像を超えた神の愛を思い巡らす中に、私たちの心に変化が起こる。私自身が赦せる心、愛する心を持つ者へと変えられていくということです。
今日の旧約の朗読箇所、申命記によれば、ぶどうの実の収穫の時、残っている房を全部集めるとか、麦の穂を刈り取った後に、残っている穂を全部拾い集め「これはみな、私の物、誰にも上げない」と言うのではなく、落ちたままにしなさい、残ったら残ったままでよい、いやむしろ敢えて残すようにしなさい、と命じているのです。
何故なら、収穫する物も持たないやもめたちや、身寄りのない子ども、寄留者たちのために、「さあ、どうぞいらっしゃい、あなたがたの取り分はここにありますよ」と言ってあげるためなのだ、と教えているのです。
その理由は、申命記24章18節にあります。「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」
そして、こうした生き方ができるには、あの出エジプトの出来事があり、そこには、何千、何万匹もの小羊によって、エジプト隷属からの解放があった事実がありました。そして、私たちにとっての出エジプト、罪の隷属からの解放、救いをもたらしたのは、世の罪を取り除く神の小羊の命へ、キリストの十字架だということです。
「あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい」(申命記24:18)とは、十字架の贖いを思い起こすことです。
このあと十字架の道を行かれる主イエスは、私たちの負い目を追求されるのではなく、その罪が赦されていることを、十字架において明らかにされるのです。そういう神さまの御心に気づく時に、赦された者、負債を免除にされた者、つまり神に愛されている者としての感謝という変化が、私たちの心の内側に必ず起こって来るのです。その恵みに浸る時に、私たちは感謝と喜びに満たされるのではないでしょうか。

Ⅳ.赦しとは変えられること

赦しとは、単に我慢を強いることではなく赦しの愛に触れた私たち自身が変えられることです。今日も「派遣の言葉」、「平和のうちに世界へと出て行きなさい。」をもって派遣されます。神の平和で心満たされて出て行きます。
ガリラヤ湖にヘルモン山の雪解け水が流れ入るように、私たちの心に神の恵みと平和が注入されている。力強い神が共におられ守って下さるのだから、私たちは勇気を持つことが出来る。その平和を携え世界へと出て行きなさい。
神ご自身が、全ての善悪の決定的な基準です。そのお方の前に生きている者として、「いつも善を行うように努め」る者として生かされています。最終的に悪に報いられるのはそのお方です。私たちが自らの手で悪に報いる必要などありません。
むしろ、相手の益を求め、「気落ちしている者たちを励まし」、弱さを抱えている人たちの支えとなり、困難の中にある人を助け、すでに神さまから最大のリスペクトをいただいている私ですから、すべての人を尊重するように。そのようにして、主を愛し、主に仕え、聖霊の力によって喜ぶように、と召されています。
私たちが辛くなる時、もう一度、赦しの愛、一方的な愛のシャワーを浴びましょう。「あなたはわたしの愛する子。あなたはわたしの喜び」。その御声が聞こえる場所に身を置きましょう。
その恵みに満たされ、今度は神の愛を届けさせていただきましょう。何故? 「神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」
お祈りいたします。