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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

決断した者の強さ―2つの言葉の間を生きたマリア

松本雅弘牧師
2019年7月14日
ルカによる福音書1章26~38節

Ⅰ.出会いを選び取り直す

「人生は出会いで決まる」、という言葉を聞いたことがあります。確かに、ある出会いを通して、それまでの歩みとは180度違った方向に導かれることがあるでしょう。友だちとの出会い、恩師との出会い、伴侶との出会い、子どもとの出会い、また映画や歌、書物との出会い、場合によっては病との出会いもあると思います。そのような意味で、出会いというものは本当に不思議です。
私が高座教会という教会と出会ったのは大学4年生の時でした。当時は学生会と青年会の2つに分かれて活動していましたが、その学生会の集会に来たのが最初でした。それから6年を経て、高座教会で伝道者として働くことなんて考えてもいませんでした。
当時、墨田区の押上にあった教会に通っていましたが、最終学年になり「牧師になりたい」という強い思いが与えられ、そうした方向を模索していました。ただ、そこには幾つかハードルがあり、中でも一番高いハードルが父親の存在でした。
私が「牧師になりたい」と父に話した時のことを今でも覚えています。父は本当に戸惑っていました。そして興奮した声になり、「何を考えているんだ! お前を牧師にするために、学校に行かせたのではない!」と、とても強い調子で怒りました。しかし、私の方は私の方で、ここで妥協したら、一生後悔するという思いがありました。父親は、とても頑固な親父でしたが、その後、父の葬儀の時に読まれた証しを聴きながら、「私も頑固だったなぁ」と思わされました。
私たちの人生の出会いについて、自分の責任の中で選び取る場合、ある程度の責任は私の側にあるわけですから、多少、辛くても文句は言えません。でも、選び取るというよりも、逆に神さまにあてがわれた環境、神さまに選ばれ、置かれた状況だと強く感じることもあるように思います。そのひとつは、家族との出会いです。それは両親との出会い、兄弟との出会いであったり、また子どもとの出会いであったりします。

Ⅱ.神からの選び

今日の聖書には、イエスさまの母親として神に選ばれたマリアの姿が出て来ます。ここには「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、はっきり「はい」と答えるマリアの姿が出て来ます。ただ、何のためらいもなく、「はい、分かりました」と即答したのではなく、戸惑い恐れ、迷う中での決断でした。そのようにして神の選び、ある人にとって、それを運命と呼ぶかもしれませんが、マリアはそれを引き受けていったのです。

Ⅲ.2つの言葉を繰り返したマリアの生涯

この後、聖書はマリアがどのような歩みをしたのか伝えています。ある人は、「どうして、そんなことが」という言葉と、「この身に成りますように」という、2つの言葉の間を、マリアは行ったり来たりする歩みだったのではないかと語っています。
結婚前の妊娠、離縁騒動、家畜小屋での出産、神殿でのシメオンの不気味な預言、イエスという御子の誕生、直後のエジプトへの避難、そして外国での難民としての生活、12歳になったイエスがとった神殿での奇妙な言動、そして息子がメシアとして活動を始めたこと。しかも最後の最後で、愛する我が子の死がありました。それも犯罪人の一人として十字架で処刑される我が子を見なければならなかったこと等です。
一つひとつの出来事と遭遇する度に、「神さま、どうしてですか」、「どうしてこんなことが」と戸惑い、訴えたい思いになったことでしょう。でもしばらくして気を取り直し、「お言葉どおり、この身に成りますように」と委ねていく。これがマリアの姿です。
私たちも生活をしていく上で、マリアと同じような経験をするのではないでしょうか。信じられないことが起こります。勿論、とっても幸せな瞬間が、突然訪れて来ることもあるでしょう。でも多くは信じがたい出来事が起こるものです。
特に家族に関係すること、その中でも子どもに関することでは、親として本当にどうしていいか分からないような辛い出来事を経験することもあるのではないでしょうか。そして思わず、「どうしてこんなことが起こるのか」と嘆き、怒り、最後は失望し、疲れてしまいます。
でもマリアの生涯を思いめぐらす時、日々の生活の中での浮き沈みは、生きるうえで当然のこと、取り乱したり、怒ったり、落ち込んだりする反応は、人として当然の反応だということを、改めて知らされるように思うのです。
マリアも私たちと同じように何度もそうした経験をしました。そうした中で、「どうして、そんなことが」という最初のつぶやきに留まるのではなく、「お言葉どおり、この身に成りますように」というところに導かれたのだと思うのです。

Ⅳ.神の選びを引き受ける

王からの借金を帳消しにしてもらった家来のたとえ話を、先週の礼拝でご一緒に学びました。最後のところで、その膨大な借金を帳消しにしてもらった家来が、50万円のお金を貸している仲間に向かって、執拗に借金の返済を求めたことについて、私たちはその人の行為にどこか違和感を覚えるのだ、というお話をさせていただきました。
私たちには神さまとの関係という縦軸があります。健康であることは素晴らしいことです。でも、その健康な状況、その日々を、どのように生きるか、そのことが問われているのです。神さまとの縦軸を覚えた時に、その人が健康という恵みの機会を、神さまの御旨にそぐわない生活でもって消費していたとするならば、その健康な状態に意味があるのでしょうか。
聖書が教える「良さの基準」とは、結論から言うならば、神に造られた目的に沿って生きるかどうか、ということです。
日々の生活の中で、私たちは様々な出来事に遭遇します。そうした出来事一つひとつの中で、「どうしてこんなことが起こったのか」とがっかりし、嘆き、怒る、ということがあるでしょう。
しかし聖書は、そのような一つひとつの出来事を通して、神は作品である私たち一人ひとりを形づくられると語ります。そして、この世界に一つしかない、マスターピース、最高傑作として、「私」という作品を形成しておられると言うのです。
聖書は、それを神のご計画と呼びます。その計画は、固定され、動かしようのない計画ではなく、むしろ、その働きに私も参加するようにと招いておられるご計画です。
それは、英語で言えば「プラン」と呼ぶよりは「プロジェクト」と訳されるべき言葉です。そのプロジェクトに加わるように、そして、一緒に形づくっていくようにと神さまは、私たちを招いてくださっているのです。
高座教会の形成についても同様です。キリスト教哲学者のガブリエル・マルセルは、人生のすべての出来事は、「問題」か「神秘」かだ、と語ります。仮に1つの出来事が「問題」ならば、問題ですから、それは必ず解決されなければなりません。でも、「神秘」であるならば、それは味わうべきだ、というのです。
ちょうど、今日の聖書に出てくるマリアのように、そのままを身に納めて、時にそれを角度を変えて眺め、飴を舌の上に載せて味わうように、その出来事を心の中で思いめぐらすのです。
時間をかけて、ゆっくりと咀嚼していく。そのプロセスにおいて神さまは、私たちを祝福してくださるのです。
波乱万丈の人生を送ったパウロは人生を振り返り「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(Ⅰコリント15:10)と証ししました。
別の訳の聖書では、「神の恵みによって、今の私になりました」とありました。神さまの恵みによって、この私を仕上げるために、様々な出来事が起こって来るのです。しかし、万事が益とされていくのです。今日の、グローリー☆エンジェルズの特別賛美、「クレド(弱いものの信仰宣言)」の詩そのものです。
先ほど、父との葛藤の証しをしましたが、私の献身の思いを父に伝えた時に、私は父に思いっきりぶつかることができました。父は父で、私が思いっきりぶつかったことによって、それがきっかけとなり、父も自分のこととして信仰を捉えることができたのではないか、と思います。
親として、子どもたちとの出会いもそうかもしれません。自分の子どもの気持ちをなかなか受け入れられない経験もするでしょう。何故、うちの子に限って、「どうして、そんなことが…」と、切ない思いに襲われる時もあるでしょう。でも、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、その出会いを引き受けていく時に、そうした一つひとつの出会いを通して、私たちの人生が豊かにされていくことを覚えたいと思うのです。
お祈りします。