カテゴリー
主日共同の礼拝説教

共に生きる者として

松本雅弘牧師
2019年7月21日
創世記2章18―25節、マタイによる福音書19章1―12節

Ⅰ.主イエスを試すことで、神に試される私たち

マタイ福音書19章から、主イエスはいよいよ都エルサレムを目指して出発します。
その途上、様々な人々が主イエスに近づき試そうとするのですが、実は、逆に主イエスによって試されていくのです。そうした人々の最初に登場するのがファリサイ派の人々でした。

Ⅱ.離婚できる条件は?

ファリサイ派の人々は主イエスに尋ねました。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と。
彼らが問題としたのは「夫側の離婚の権利」でした。当時、ユダヤ教では離婚に関して様々な見解がありました。元となる聖句は、申命記24章1節以下の御言葉で、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあり、この「恥ずべきこと、気に入らないこと」とは、一体何かが議論の的となっていました。
実はその見解はそれぞれの派によって異なっていました。こうした背景の中、主イエスはどうされたかと言えば、創世記を引用しながら、「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」と答えられました。
神ご自身は完結されているが、人間は男性だけで、あるいは女性だけで完結して生き得るのではなく、互いに相手を必要とし、他者と共に生きる存在として造られているのだ、と語られたのです。
こうした主イエスの理解は、現代の私たちにとっては当然のことでしょう。カンバーランド長老教会の信仰告白にも、男女は対等で相補的で、共に生きる者として造られていると告白しています。ですから主イエスの教えには違和感はありません。しかし、当時のユダヤ人にとってはそうではなく、主イエスが示した理解は,ものすごく画期的で、ファリサイ派の人々からしたら全く想定外の答えを聞かされたようなのです。
ファリサイ派の人々が主イエスから引き出したかった答えは何かと言えば、男性の離婚の権利が、どれほどの幅をもって許されるものなのか、ということでした。
しかも、彼らがその質問をする前提には、女性には離婚に関わる権利が与えられていないという考え方がありました。実はこの後、主イエスが問題にされたのは、まさにその前提そのものだったのです。
ここで主イエスは、創世記2章24節を引用し、女性の立場を擁護されます。女性が一方的に離婚されない権利を、御言葉は保証しているのだと発言されたのです。この発言は、女性には離婚に関わる権利はないと考えていたファリサイ派の人々にとっては挑発的な投げかけでした。
ですから当然、反発が起こり、彼らは「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」と反論してきたのです。当時、ファリサイ派の人々にとり、モーセは絶対的な存在で、彼の言葉は絶対的な権威だったからです。
ところが、これに対して主イエスは「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」とお答えになりました。
つまりモーセが語った真意は、離縁された女性がそのまま放置されたら生きていくこともできないので、彼女たちの再婚の権利を保障するために、「離縁するならば、きちんと離縁状を渡してからするように」と、モーセは言いたかったのだと答えられたのです。
さらに、主イエスは女性の権利を徹底して守ろうとして、「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(9節)とお語りになったのです。

Ⅲ.弟子たちの驚き

こうした主イエスの厳粛な教えを聞いた人々の中に弟子たちも居ました。そして、彼らは驚いて「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言って、思わず議論に口を挟んでしまうのです。弟子たちも時代の子、ファリサイ派の人々とそれほど変わらない女性観、結婚観を持っていたのでしょう。
弟子たちの反応をご覧になった主イエスは、今度は一転して別の話を始められました。それは独身についてでした。「イエスは言われた。『だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。』」(11節)
この時代のユダヤ社会において、結婚は何かと言えば、「産めよ、増えよ」という神の命令に対する応答で、ある人は、それを義務とさえ考えていました。
しかし、ここで主イエスはさらに踏み込んだ発言をされました。つまり結婚しない生き方について触れたのです。それも、そうした生き方を認め、積極的に評価までしておられます。
これは画期的なことでしたし、結婚したくても出来ない人も当然いたことでしょう。「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受けいれなさい。」(12節)
この、「結婚できないように」という言葉を、以前に使っていた口語訳聖書、そして、最新の聖書協会共同訳でも「独身者」と訳されていますが、ギリシャ語では「去勢された者」という語が使われています。
ここに3種類の結婚しない人々が挙げられています。まず第2の「人から結婚できないようにされた者」というのは、戦争(捕虜)、奴隷制、性的搾取などのゆえに去勢された人々、事故などでそのような身体的状況になった人々を指すと言われます。
そして3つ目、「天の国のために結婚しない者」というのは、宣教活動など信仰的・宗教的理由で、まるで「去勢された者」であるかのように結婚せずに独身生活をする人々のことでしょう。また「天の国のため」でないかもしれませんが、宮廷の高官職に就くために、自ら去勢した人もあったようです。
では、最初に挙げられている「結婚できないように生れついた者」とはどういう人々のことを指しているのでしょうか。それは、「去勢」という行為をしなくても、「結婚できない人」と見られた人々のことを指すのではないか、と考えられます。

Ⅳ.共に生きる者として

ところで、先月、GA(カンバーランド長老教会総会)に出席された直後の説教で、和田先生がLGBT、セクシュアル・マイノリティーの人々について触れられました。同性愛の教職を認めるか、というのが論点だそうです。カンバーランド長老教会も、いよいよ、その話題と向き合う時が来たかと思わされました。今の時代、様々な理由で結婚しない人が増えていますし、同性愛者のカップルで生きる人々もいます。その他のセクシュアル・マイノリティーの人々もいます。
カンバーランド長老教会の指定神学校の1つで、荒瀬先生も教えておられる日本聖書神学校に山口里子という聖書学の先生がおられます。山口先生が『虹は私たちの間に~性と生の正義に向けて』(新教出版)という書物を書いておられます。
その本の中で山口先生は、この12節に出てくる、「結婚できないように生れついた者」に触れ、こうした人々の中には、今日でいう同性愛者他さまざまなセクシャル・マイノリティーの人々や、当時の「男らしさ」という文化的規範に適合できない人々・しない人々も含まれていたのではないか、と語っておられました。この件については、今後時間をかけ、慎重に議論していく必要がありますが、少なくとも、主イエスは、結婚という男女の交わりを中心に置きながらも、それを絶対化することなく、むしろ、さまざまな生き方があることを認めておられたのかもしれない。
だからこそ、その主イエスと直接やりとりをした、ファリサイ派の人々、その時代の子であったご自分の弟子たちも、イエスさまのお考えがあまりにも斬新であり、画期的であったが故に、ついて行けなかったのでしょう。イエスさまは、そうしたことを、公けに語られただけでなく、むしろ、教えるようにして生きられました。ゆえに、その主イエスに対して我慢ならない。結果として、十字架があったことを思わされるのです。
使徒パウロは次のように語りました。「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」(Ⅰコリント7:7)
そう語ったパウロも独身を貫き、洗礼者ヨハネも、そして、他でもない主イエスご自身も結婚しない生き方をした御方です。
このように見てくると、本当に大切なことは、ありのままの自分が神さまからの賜物であることを受け入れ、それ故、そのことが私にとって祝福された状態なのだということを信仰をもって受けとめることなのではないでしょうか。主イエスの、命を賭けた後ろ盾があるわけですから。
お祈りします。