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主日共同の礼拝説教

御言葉は響き渡る

和田一郎副牧師
2019年7月28日
詩編19編1~15節  1テサロニケ1章5~8節

1、苦しみの中で

テサロニという町は、聖書に出てくる名前として親しみがありますが、現在もテッサロニキと呼ばれるギリシャではアテネに次ぐ大都市だそうです。パウロはその後、コリントの町にも向かいましたが。コリントとい町も、現在のギリシャの南部の都市です。テサロニケとコリントは、今は同じギリシャという国ですが、新約聖書の時代はマケドニア州とアカイア州とに分かれていました。もっと歴史を遡ると二つの地域は別々の独立国でした。人は国境を巡って権利を主張したり、争ったりします。しかし、信仰は国境を越えていくものです。今日はテサロニケの町をきっかけに、州や国境を越えて御言葉が響き渡った、というテサロニケの教会の様子を見ていきたいと思います。
パウロたちは3週間ほど、テサロニケの町で伝道を続けましたが、それを妬んだユダヤ人が暴動を起こして、パウロたちはテサロニケの町から去らねばならなくなりました。当然、テサロニケの町に残った人々も、大変な嫌がらせや迫害を受けたようです。
今日の聖書箇所、1章6節に「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ・・」とあります。テサロニケの人々は、苦しみの中で、御言葉を受け入れたのですね。嫌がらせや、迫害を受けたにも関わらず、しっかりとした信仰を持っていました。いや、迫害があったからこそと言ってもいいかも知れません。パウロが称賛するほど、信仰が根付いていたのです。
先週、高座教会では、「セレブレーション・フォー・ザ・ネーションズ」という賛美集会がこの礼拝堂を会場として行われました。外国からも多くの人達が集まり、中国の人達も参加していました。中国本土では政府の圧力が教会にも及んでいることが問題になっています。教会の閉鎖や、聖書が焼き捨てられるといった取り締まりがあると言われています。しかし、今アジアの中でキリスト教が伸びているのは、取り締まりが厳しい中国だとも言われます。迫害という苦しみの中で福音を受け取る人がいて、迫害があるからこそ、信仰が強いものとされていくということがテサロニケの教会と同じようにあるのです。
パウロたちも伝道した先で、次から次へと妨害、迫害を受け続けました。しかし、逃げていった次の町で、また福音は広がっていきました。それぞれの町の人たちが、迫害があっても信仰を失わなかったのはなぜでしょう。それは苦しみ以上に、福音には平安があったからです。真の神様の救いとは「分け隔てなく、すべての人に救いがある」というものです。当時は身分や民族、それこそ男女という性別においても、大きな分け隔てがありました。それが取り除かれるというキリストの福音には、救われる思いがあったのです。それは北朝鮮でも、中国でも起こっていますし、テサロニケの町でもそのことが起こったのです。
そして、6節では、「わたしたちに倣う者、そして主に倣う者になりなさい」とあります。つまり、パウロ自身を見習い、キリストを見習いなさいということです。パウロの生き様というのは、キリストに倣う者となることです。キリストの生き様というのは、当時、世の中から疎外されていた人に寄り添ったということです、そして神様の願っている生き方を教えてくださいました。パウロはそのキリストの生き様に倣って生きていましたし、テサロニケの人々もそれに倣ったのです。

2、主の言葉が・・・響き渡った

7節で、「マケドニア州とアカイア州に主の言葉が響き渡った」とあります。それぞれの地域で、同じ福音、同じ御言葉が響き渡ったというのです。それは、苦しみの中で御言葉を受け取ったテサロニケの教会の人たちが、キリストの生き方に倣って信仰生活をおくっていたことによって、テサロニケという小さな教会から波紋が広がって、マケドニア州、アカイア州にも、そして至る所に伝えられるようになったのです。池の水の波紋が広がっていくように広がっていったのです。御言葉の力は、人間が引いた境界線を飛び越えていく力があります。それが福音の力です。
福音というのは「善い知らせ」という意味ですが、それは「和解された」という知らせです。別々だったものが和解される。神と人とは、人間の罪によって隔たりがあったのですが、それが和解されて、一つの家族の関係になれるという「善い知らせ」福音です。
イエス様が十字架で息を引き取った時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました。神殿の中には「これから先は神様の領域、その先には入ってはならない」という、神と人とを区別する垂れ幕があったのです。それがイエス様の死の瞬間、真っ二つに裂けて、隔たりのあったものが取り払われたのです。一つに包み込まれたのです。区別されていたものを包み込んだのが神の愛、キリストの福音です。
ユダヤ人とサマリア人は、いがみ合っていました。区別していたものを包み込んで、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てまでも包み込んでいったのが福音です。
当時「お前達に救いはない」、と言われていた病気の人、貧しい羊飼い、罪人と呼ばれた人たちは区別されていました。ユダヤ人とギリシャ人、奴隷とその主人は区別されていましたが、もう分け隔てはなく、神の前に等しく子としてくださった。神の家族として包み込んでくださったことが、善い知らせ「福音」です。その御言葉がテサロニケの教会をきっかけに、マケドニアにもアカイアにも響き渡ったのです。

日本と韓国にも同じ福音、同じ御言葉が届いてから400年ほどの年月が過ぎました。
今、日本と韓国は関係が悪いですね。テレビや新聞には毎日、二つの国の関係が悪くなっていることを伝えています。
今回、賛美集会に参加するために来日した韓国人の青年が話をしてくれました。日本人も韓国人も、互いを愛するということが、簡単なもんだいじゃないと日本に来て感じたと話してくれました。韓国から来る時も、「何で日本に行くのだ?」という空気があったそうです。ですから、彼らが日本に来て礼拝することにはチャレンジもあったのだと感じました。
ある韓国人の先生がメッセージをしてくださいました。あなたは何者ですか? と聞かれたら、私は「礼拝者です」と答える、と話してくれました。何故かと言うと、「神様が私に、一番求めていることは、神を礼拝することだ」と言うのです。だから、今回日本で賛美集会が行われると聞いて、日本で礼拝をしたいと思って来たというのです。私は思いました。私たちが、一礼拝者となった時、韓国人も日本人もないと思いました。一緒に賛美している時に、心からそう思わされました。人は心から神を礼拝する時に、神様が造られた人間本来の姿にもどります。ただ礼拝者となる時に、人の知恵の足りなさや、エゴや、人を裁く心を、そのまま包み込んで、神の前に一つになれるのではないかと思いました。ただ礼拝することで、キリストに近づいていきたい。それこそが信仰ではないでしょうか。神様は、それを「あなたの信仰が、あなた方を救った」と言ってくださいます。
国が違えば文化が違います。民族が違えば習慣が違います。それぞれの違いを包み込んで福音は広がっていきました。天地万物を造られた神様の救いには、すべてのものを包み込んで、違いを尊重しながらも、一つになれる力があります。
私は賛美集会で祈り、賛美する中で「礼拝する者」という自分の生活の在り方を見つめ直したいと思いました。日々の中で礼拝する者として、どう在るべきかを考えさせられました。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる、聖なる生ける生け贄として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)
自分の体をもって、礼拝する者で在りたいと思います。この一週間、すべてをキリストの大きな愛で包み込んでくださる、神様を礼拝する者として歩みましょう。
お祈りをします。