松本雅弘牧師
2019年8月4日
マタイによる福音書19章13~22節 詩編19編1~5節
Ⅰ.主イエスの弟子になりそこなった人
今日の個所は、クリチャンでない人もご存知の有名な話です。ある人はこの青年を「主イエスの弟子になりそこなった人」と呼んでいました。
彼は、永遠の命を求めて主イエスのところにやってきたのですが、主イエスは、全ての財産を貧しい人々に施し、その上で従いなさいと言われ、彼はそれに応えることができませんでした。
Ⅱ.青年の抱える切実な悩み
今日の箇所には子どもについての主イエスの御言葉が紹介されています。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(14節)。素晴らしい教えです。この教えに続くのが、富める青年の話で、こちらはどこか違和感を覚えるような話なのです。
主イエスは、何も持っていない子どもたちに手を置いて祝福し、「天の国はこのような者たちのものである」とまで言って、天国を約束しておられますが、青年に対しては、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と、さらなる要求をされたのです。
ですから戸惑ったのは青年だけではなく、やり取りの一部始終を目撃していた弟子たちも、つい本音が口から飛び出しました。「それでは、だれが救われるのだろうか」と。
結局、青年はどうしたでしょう。「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。…それから、わたしに従いなさい」。主イエスのこの言葉を聞き「悲しみながら立ち去った」のです。その理由についてマタイは、この青年が「たくさんの財産を持っていたから」だと伝えています。
この「財産」という言葉を調べますと、土地のような不動産も含まれることが分かりました。ですから、彼の生活は安定していたのでしょう。いや今の生活だけではなく、将来にあっても安心だったに違いない。何事につけ本当に恵まれた青年です。
そうした彼が思い悩んでいました。何か足りないのではないか。神の教えはどれもこれも守っている。この私に、あと何が足りないのだろう。何も足りないものはないと思えるのだけれども、でも「永遠の命」を手にしていないようにしか思えない。それは何故なのか。そうした心の中の思いを、彼は主イエスに向けたのです。
彼が登場する直前、主イエスは子どもたちに手を置いて祝福されました。しかも「天の国はこのような者たちのものである」という言葉までも飛び出しました。主イエスが幼子たちに天の国を約束されているのです。すでに神の国に生きているかのように、一人ひとりを抱き上げ、手を置いて祝福しておられるのです。
悩むこの青年が、そこに居合わせていたかどうかは分かりませんが、子どもたちの話を耳にしたのかもしれません。そしてずっと心に引っかかっていた神の国の祝福を、この時すでに手にしているたくさんの財産と共に、自分のものとしなければならない、そう思ったのでしょうか。
ここで言われる「たくさんの財産」の具体的な額は分かりません。たぶん彼一人では使いきれない程「たくさん」という意味でしょう。
説教の準備で読んだ本の中に、当時の平均寿命は30歳だったと書かれていました。彼がこの時、何歳だったか分かりませんが、人生のはかなさの感覚はあったのではないか。だからこそ、「まだ何か欠けているではないか」という、心の中にあるはっきりとした不安、そうした永遠の命に関する真剣な問いを、この時、主イエスにぶつけたのではないかと思うのです。
Ⅲ.主イエスの導き―「足りない一つの善いこと」ではなく「唯一の善い方」
そうした彼の問いかけに対して主イエスは、「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」とお答えになりました。
ここで、主イエスは彼が尋ねた「足りない一つの善いこと」に対して「ただお一人の善い方」、すなわち神さまに心を向かわせています。
これは大切なポイントだと思うのです。彼は「足りないこと」を聞いているのに、主イエスは神を示されたのです。しかし残念なことに彼は理解できなかったようです。ですから彼の質問が続くのです。「掟を守れと言われますが、具体的にはどんな掟なのですか」と。これに対して主イエスは十戒を伝え、さらに「隣人を自分のように愛しなさい」と説明します。すると青年は、「そういうことはみな守ってきました」と応じます。そうした上で一番知りたい質問をするのです。「まだ何か欠けているでしょうか。」
主はどうお答えになったのでしょうか。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」とお答えになりました。ここで主は、「あなたには完全さが足りない」とおっしゃったのです。
ある人の表現によれば、百の石を積んで初めて、その人間の人生が全うするのに、99まで積んだにとどまり、最後の1つの石が足りないならば完全とは言えない。
主イエスはそういうことを語っておられるのでしょうか。主が言われる、最後に積み上げる石とは、何と全財産を貧しい人々に施すことです。この最後の石、それこそ超人的な、高すぎるハードルではないでしょうか。
僅かな財産しかなければ、つまり持っていない者にとって、それを投げ出して主イエスに従うのは、ある意味、簡単なことかもしれない。でもこの青年にとって、財産全てを貧しい人々に施すということは並大抵のことではないでしょう。でもそうしなければ、永遠の命にあずかることができないと主はそう言われているのだろうか。
ここまで来ると、弟子たち同様、「それでは、だれが救われるのだろうか」と、つい言いたくなってしまいます。21節で主は「もし完全になりたいのなら」と語られました。つまり、この青年が抱える問題点は「完全さ」と関係していることを指摘しておられるのです。
この「完全という言葉は福音書には2か所にしか出て来ません。この箇所と、山上の説教の場面の5章48節、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」です。そして大変興味深いのですが、そう語られた後、山上の説教を読み進めて行きますと、続く第6章に入り、20節で天に富みを積むようにと教えます。
ここに、今日の19章21節に出てくる、「天に富を積む」と同じ表現が、山上の説教にも出てくるのです。つまり神の完全さとは、悪人にも善人にも等しく太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる、そうした神さまの恵みの完全さ、愛の完全さです。だからこそ主は、「善いお方はお一人。神が唯一善いお方である」とおっしゃるのです。
そして信仰の恵みは何かと言えば、このただ一人の善いお方に繋がることで、私たち自身が不思議と善い者へと造り変えられていく。憐れみ深いお方の憐れみを受けることで、いつの間にか憐れみ深い者へと少しずつ変えられていく。それが神との関係を結んだ者の内に起こる恵みの変化です。
この青年の問題点は何だったのか。それは彼の信仰生活に、神さまとの生きた交わりがなかったこと、宗教行事/宗教的行為はしていました。でも、その動機は、不安や恐れ、天国行の切符を手にするだけが目的の生命保険のようなものに過ぎなかったのです。
Ⅳ.イエス・キリストを知ることで永遠の命にあずかる
この青年にはたくさんの財産がありました。でも、そうした財産が神さまに向かうこと、神さまに頼ること、神に繋がることを妨げていました。財産さえあれば、どうにかやっていける。そうした財産の上に築き上げられていた生活は、神さまを求めずとも、しっかりと自分を支えてくれる。そのように錯覚させていたのでしょう。
それゆえに、彼にとって財産そのものが、神さまと彼を引き離す隔ての壁になっていたのです。それはあたかも、主イエスの許に走って来る子どもたちを妨げ、主イエスと子どもたちの間に立ちふさがる壁のようになり、それ故に、主イエスから叱られた弟子たちのような存在です。
彼は本当に真面目な青年で、永遠の命を切に求めていたでしょう。しかし青年は勘違いし、永遠の命を財産目録の中に、1項目書き加えるようなもののように考えていたのでしょう。
永遠の命とは神さまの命に与かること、神さまとの生きた関係の中で、その命の恵みに与って生きることです。
マルコによる福音書を見ますと、この、全てを売り払って貧しい人々に施すようにとおっしゃった主イエスの言葉の前に、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。…」(10:21)とあります。彼に必要なもの、いや彼に必要なお方は、彼を見つめ、慈しまれる主イエスご自身です。そのお方を知ること、いやそのお方に知られ、愛されていること。それ故に、朽ちる物を人生の土台とするのではなく、このお方との生きた親しい交わりに生きることです。何故なら、そこから全てが始まるからです。お祈りします。