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主日共同の礼拝説教

育ちを振り返る

松本雅弘牧師
ヨハネによる福音書4章1~15節
2019年8月11日

Ⅰ.はじめに

数年前、岩波ジュニア新書から『「育ち」をふりかえる』という本が出ました。渡井さゆりさんの著作ですが、自らの生い立ちを振り返り、実の親から愛された記憶を持たずに、孤独と疎外感、深い絶望の中を歩んできた、ほんとうに正直な証しの本です。
彼女は心の中にあった、「自分は一体、何のために生きているのか」という問いの答えを求めながら大人になった方です。困難と向き合い、生きる意味を探し、やがて「生きていてもいいんだ」という思いにたどり着いて行く。そうした本です。
この本を手にして読み進めながら、家庭の中で、さまざまな形で負の連鎖を受けながら、今の自分があることを改めて知らされると同時に、私たちの言葉を使うならば、神さまが用意してくださっている恵み、神さまの備えが必ずあることに、心の目が開かれていく、そのことが、いかに大切なことであるかを考えさせられたのです。

Ⅱ.サマリアの女とイエスさまとの出会い

今日の聖書個所ヨハネ福音書4章は、イエスさまとサマリアの女性の出会いを伝えています。
ある日、主イエスはサマリアと言う場所を通過しようとしていました。時刻はちょうど正午ごろ、大変暑い時間帯です。そこには井戸があり、水を汲みに来ていた女性が居ました。喉が渇いたイエスさまは、彼女に「水を飲ませてください」と願います。
実は当時の常識からすれば、公けの場で男性が女性にお願いすることはタブーで、しかも本来ユダヤ人がサマリア人に声をかけることなどもありえない話だったようです。しかし、いくつかの壁を越え、上下関係で言えば、上の立場にあったユダヤ人男性の主イエスの方からゆずって、このサマリア人女性に「水を飲ませて欲しい」とお願いしたことがきっかけとなりました。
このお話を読み進めてくと、最初は喉の渇きを癒す水の話が、いつの間にか、水という物質的な物を求めてやってきたサマリアの女性自身の、言葉にならない、胸の奥底にしまいこんでいた「心の渇き」を目覚めさせるような会話へと発展するのです。
主は言われます。「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」(4:16)。実は、この女性の心はカラカラに渇いていました。彼女の過去には、5人の夫がいて、現在同居している男性は本当の夫ではありません。そうした彼女の生活ぶりは周囲から厳しい目をもって見られていたのではないかと思います。
夫を5人も持ったということは、共に暮らす人との関係の中で、当然、得られるはずの理解や喜び、深い充足や安心感を得ることが出来てこなかったという「渇き」があったのでしょう。

Ⅲ.心の渇きを経験する少年

以前、この教会に来られた先生が、ある少年のことを話してくださいました。
Ⅰ君は小学校2年生になった時から両親の希望で塾に通い始めました。でもそれはⅠ君にとって苦痛なことでした。I君はその苦痛を紛らわすために塾の合間にコンビニをうろつき、ゲームセンターを覗き、清涼飲料水や栄養ドリンクを飲み始めたそうです。家庭は比較的裕福でしたので小遣いを求めれば母親は求められただけを与えました。
学校から戻るとすぐに塾に行く。両親と一緒に食事をする事も会話することも稀です。大人しくしていれば、すべての要求に応えて貰えたので、親の前ではずっと「良い子」を装っていました。
そんなI君が、たばこを覚えたのが小学校5年生の時。母親に見つかったことがありますが、「いらいらするので、ごめんなさい」と謝ると、その後は注意もありませんでした。「眠れない」と訴えると親が睡眠薬をもらってきてくれて、それを飲み始めたそうです。
このようにして希望の中学に合格しました。父親は大喜びで、I君は父親に「お祝いにライターが欲しい」とねだると、「まだ使うなよ」と言って高価なライターをプレゼントされました。
ところが、これが切っ掛けとなって、ライターのガスを吸い始めました。「何度もやめよう」と思いつつ睡眠薬、たばこ、シンナー、ガスパン遊びの習慣から抜け出せずに苦しみ始めます。そして高校1年生の時に、中学時代の友人に覚せい剤を勧められ、それに手を出していくことになりました。自分の淋しさや、心の渇きを癒すものを、彼は見出すことができませんでした。
今日の聖書箇所のキーワードは「渇き」だと思います。この「渇き」という言葉が、ヨハネ福音書の中で、特別な場面でもう1回出てきます。それは十字架の場面です。
福音書が示す十字架の場面には様々な人が登場します。そこでは人間のドロドロした感情や怒りが、無抵抗なイエスさまに対してぶつけられていきます。
本当に憐れな人間の姿が出てきます。心が満たされていない者として、怒りや悲しみやイライラを抱えた者として、一人ひとりが登場するのです。つまり皆が心渇き、満たされない思いで、その怒りをイエスさまにぶつけていたのです。皆が人生に怒りを覚えていた。I君もそうですし、サマリアの女性もそうでした。
ヨハネ福音書19章28節以下に、次のように書かれています。
「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたことを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。…イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」。
十字架の上での、この「渇く!」という主イエスの叫びは、実は、私たち1人残らず、全ての人の渇きを身に受けてくださった瞬間の叫びだとヨハネは伝えたかったのではないでしょうか。
イエス・キリストは十字架に死なれるために生まれてこられた。それは、「渇き」を覚えるすべての者に「終わり」を告げるためです。私たちが経験する「渇き」を、主は十字架において渇き切ってくださった。それによって、私たちの渇きを癒してくださったのです。

Ⅳ.本当の癒し

私たちは生活の上で様々な「渇き」を経験します。そうした根源的な渇きは、造り主であるお方と出会うまでは、決して癒されない。
言い方を変えるならば、本当にイエスさまがこの私を愛してくださっているんだ、という確信に行きつくまでは、何の解決も起こらないのです。
そのため、そうした心に溜まった「怒り」や、「渇きが癒されないイライラ」はいろんなところに向かって行って、見当違いの戦いをし、周囲の人を傷つけてしまう。家族のことひとつ取ってもそうでしょう。一番大切にすべき人を、私たちは大切にできないのです。私たちは的を外して生きています。
もう一度、冒頭のヨハネ福音書4章に戻りましょう。このサマリアの女性は、イエスさまと出会いました。出会った後の姿が、4章28節以下のところに出て来ます。
「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」
彼女が一日の内で一番暑い正午にここにやってきたのは、水を手に入れることが目的でした。ところが、その一番大切な水の入った水がめをほっぽり出してしまっている。しかも、正午にやって来た理由は、人目を避けるためだったのに、彼女の方から人々のところに出て行っているのです。
つまり、一番大切なお方と出会い、一番大切なものを手に入れた彼女にとって、もはや、水がめは二の次、三の次になっているのです。
そして、イエスさまとの出会いによって心の渇きが癒された彼女は、彼女自身が変えられ、今度は、彼女の方から、人々のところに行って、イエスさまのことを証しする人へと変えられているのです。
イエス・キリストは、私たちの心の渇きを癒すと共に、私自身を新しい人に造り変える力をお持ちの方であることを心に留めたいと思います。
「渇いている人は、誰でもわたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ17:37)。
神さまが願っておられることは、ここにいるお一人ひとりと出会いたいということであります。あなたの心は乾いていませんか? その渇きを癒していただくために、イエスのもとにあゆみ行こうではありませんか。お祈りします。