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主日共同の礼拝説教

人ではなく神に喜んでいただくために

和田一郎副牧師
マラキ書1章11-14節 テサロニケ一2章1-4節
2019年8月25日

はじめに

 

パウロがこの手紙を書いた頃、現在のギリシャにあったテサロニケの教会は模範的な教会でした。偶像とされるギリシャの神々から離れて、イエス・キリストこそ主であるという信仰を忠実に守っていました。周囲のクリスチャンの模範となっていたのです。このテサロニケの教会が模範的であったことは、世界中にキリストの福音を広める、大きな転換点となったと言われます。パウロは第1回伝道旅行では、アジアの各都市への宣教旅行でした。現在のトルコ共和国です。しかし、第2回伝道旅行ではアジアを通り抜けて、エーゲ海を越えて、ついにヨーロッパ宣教に入ったのです。パウロは、エーゲ海の手前のトロアスという町で幻を見ました。「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」、というマケドニア人の幻を見て、ヨーロッパに渡る決意をしたわけです(使徒言行録16章)。 タルソスという小アジアで生まれたパウロにとって、それまでは、自分の陣地といっていい地域での宣教旅行でしたが、ヨーロッパに足を踏み入れたのです。そこで訪れたフィリピ、テサロニケにキリストの福音が伝わり、当時ローマ帝国が整備していたイグナチオ街道にのってキリストの福音が広がるという転機となりました。パウロが建てたテサロニケ教会が模範となって、この街道にのって福音が広がっていったのです。
さてパウロたちはヨーロッパに足を踏み入れたのですが、まずフィリピの町で迫害を受けて追い出され、次のテサロニケの町でも迫害を受けて追い出されました。そうして数ケ月経ったころでしょうか、残されたテサロニケ教会の人々が心配になって書いた手紙が、今お読みしている手紙です。

Ⅰ、無駄ではなかった

 

今日の聖書箇所テサロニケの手紙2章1節から、パウロはテサロニケに行った時のことを振り返っています。「テサロニケの兄弟たち、私がそちらに、つまりテサロニケへ行ったことは無駄ではなかった」というのです。「無駄ではなかった」というからには、どこかで「自分のしていることは、無駄なんじゃないか?」という思いがあったのかも知れません。しかし、そんなことはない。テサロニケに行ったことは、無駄ではなかった、無駄どころか、結果的にはパウロたちがテサロニケに入っていったことで、テサロニケに教会が生まれました。そして、パウロたちが去った後も、しっかりとパウロの教えが守られている知らせを聞いたのです。

Ⅱ.「迷い、不純、ごまかし」によるもの

パウロの激しい苦闘の中には、自分に対する悪い評判に対するものもあったようです。
3節に「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」また、5節には「わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。」という言葉使いから、パウロに対する悪い噂や評判に対して、自己弁護している様子を感じます。パウロという者は、不純な動機がある、つまり真理に基づくものではなくて、人に気に入られるような教えや、他宗教の人々をかすめ取ろうと企んでいる者だと、噂を流している人たちがいたようです。恐らくテサロニケを去ったパウロの悪口を言い、パウロの評判を落とすことで、彼の伝えた福音というものは真理などではない、偽りの話だと否定したかったのでしょう。そうしたことを言い広める者たちとの戦いもあったのです。

これほど次々と妨害が続いて、普通の人でしたら「これはやっぱり宣教旅行に行くのは神様の御心ではない」とか、「ヨーロッパに宣教に行くのは諦めるしかないんじゃないか?」と思うのではないでしょうか。先のこと、先のことを思い描いていたら、進めなかったでしょう。普通の人はそう思うものですし、信仰というものがない人は、無理だと考えます。しかしパウロは諦めなかったのです。事を実現してくださるのは神様だからです。自分にこれからどういうような事態が起ってくるのか分からないけれど、目の前の町で宣教することは、神様が成してくださることだと確信していたのです。
私たちに求められるのはこの確信ではないでしょうか。先々のことを考えなくえいいとか、計画を立てなくていいというのではありません。しかし、まだ何も分からない先のことに思いがいってしまう。そして確信が持てない。これがいつも私たちを立ち止まらせる原因です。わたしたちの住む日本は、戦後の高度成長期に、右肩上がりの成長路線に乗って、将来の青写真を描きながら歩んできました。その成長路線一辺倒の将来像には無理があるのではないか。長期的な計画を描くことが難しい時代に、私たちは今生きています。それでは私たちは、どこに向かっていけばいいのでしょうか。

先週の祈祷会で、ある長老が箴言20章24節から奨励をしてくださいました。
「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。」
神様が私たちに定めてくださる「先」というのは、一歩一歩だというのです。日々新たにされて、その日その日の歩みを、しっかりと踏み続けることが出来るように定めてくださいます。人が自らの道について理解していなくても、神様はその日の一歩を示してくださるのです。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩編119編105節)
「灯(ともしび)」は英語ではランプとなっていました。足元を照らすぐらいの小さな光です。神様は、私たちの先の先まで大きな光を照らして、将来を示されるのではなく、一歩一歩の足元を照らしてくださる方です。最終的な未来には大きな希望を与えてくださっています。しかし、昼は雲の柱で、夜は火の柱で、一歩一歩の行く先を導いてくださいます。神様は、わたしたちにその一歩先を、確信をもって踏み出せるように、明かりを灯(とも)してくださいます。
そして、パウロはいつもその一歩一歩をしっかり踏みしめて歩んだのです。恐らくパウロ自身も不安で揺れることもあったと思います。テサロニケに来てはみたけれども、自分の想像した以上に厳しい状況に、「これはひょっとしたら神様の御心ではないかもしれない。」という思いがあったかもしれません。しかし、「神様に勇気づけられた」と2節にあるように、次の一歩を踏み出したのです。この町で証しをし、この町で福音を伝える。「わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているのだ」。神様はその思いを与え、灯をともして、次の一歩を踏み出せるように、パウロの背中を押してくださいました。パウロは、もう人の評判や、次に来るかもしれない迫害や妨害を気にするのではなく、そのようなことがあったとしても、人の評判ではなく神様に喜んでもらうことを選んだのです。
自分が犠牲になることを、惜しむのではなく、イエス・キリストが自分のために犠牲になられた恵みを、心の支えとして歩んだのです。

Ⅳ. まとめ

今日の聖書箇所は、パウロがテサロニケでの出来事を振り返って、テサロニケを追い出されて、その時は落胆したけれど、「無駄ではなかった」と振り返っている箇所でした。
みなさんには、「あれは無駄だった」と落胆するような思いではあるでしょうか。
「あの時、ああだっタラ」「あの時、こうすレバ」というタラレバをわたしたちは思い起こします。しかし、パウロは自分の生き方に自信をもって生きていると感じられます。鞭を打たれ、投獄され、船が難破し、人に罵られ、悪い噂をたてられて、迫害にあって命を脅かすようなことの繰り返しでした。大宣教者として讃えられるような輝かしい場面などはありませんでした。しかし、すべて「無駄ではなかった」。神によろこばれる道を歩んだパウロは、一切無駄のない神様に信頼していました。
「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。」
1テモテ4章4-5節
人のすることには、無駄がありますが、神様は無駄のない方です。「これでよし」、「全てよし」とされる方です。神様に委ねて歩む時、無駄に思えることも、感謝して受けるならば、そこに無駄など見当たらない。「見よ、それはきわめてよかった」とされるのです。
その日、その日に灯(とも)される灯に従って、一歩一歩の歩みを確かにして、わたしたちの心を吟味して下さる神様に従って、この一週間歩んでいきましょう。
お祈りします。