松本雅弘牧師
マタイによる福音書4章1~4節
2019年9月8日
Ⅰ.子どもの話は面白い
今日の箇所は聖書の中でも最も有名な言葉の1つではないでしょうか。主イエスの言葉です。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
この言葉を子どもたちと読むと面白い反応が返ってきます。「そうだね、ハンバーグも食べるし。ご飯も食べるし」と、いやに納得してしまう子どもがいるものです。しかし、そういう意味ではありません。人はパンなしで生きることは勿論不可能ですが、同時にまたパンだけで生きるものでもないわけです。
ここで主イエスは、「心のパン」である聖書の言葉によって心が養われ、支えられ、生かされるのが、人にとって大切なことなのだと語られたわけです。
Ⅱ.生きる「マニュアル」としての聖書
第1に、なぜ、人はパンだけで生きるものではないのかということについて考えてみたいと思います。最近は、生き方について説く様々な本があります。
イリノイ大学で哲学を教えていたモアヘッドという名の先生が『生きる意味とは』という書物を書きました。現代を代表する著名な哲学者、科学者、作家100人を選び「あなたは、人生に意味があると思うか。あるとしたら、それは何か」と、彼は質問したのです。戻ってきた答えをまとめて完成したのがこの本でした。結果は大きく3つに分かれました。1つは「正しいかどうか分からないが、私はこう考える」と、した上で「人生には意味がある」と答えたグループ。2つ目は「自分にとって人生の意味を、自分自身でこのように決めて、そして生きている」という人々。そして3つ目は「人生に意味などない」とはっきり答えた人々です。
せっかちな私は、パソコンが作動しなくなると、色々なキーを押したり、様々な事を試みます。本来でしたら「取扱説明書」を手に操作すべきでしょう。パソコンでも電子レンジでも新しい機械や家電を買えば、「必ずお読みください」という「取扱説明書」がついてきます。そこにはその機械が何のために作られ、どう動くのか、注意点はどこにあるのかが書かれています。
例えば映画に登場する発明家の実験室に置かれている機械などは説明を聞かなければ分からないような姿、形をしています。いくら機械とにらめっこしても、機械独自の目的や意味は分からないものです。どうしてもそれを発明した人に尋ねなければ分かりません。
同様に、私が生きているのは、実は生かされているのであり、その背景には、愛の神さまのお働きがあったというのが聖書の根本的なメッセージなのです。
主イエスが「人は……、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」と言われる、それは、私自身を知る上で、私が生き生きと生きる上で、「必ずお読みください」という「マニュアル」のようなもの、それが聖書なのです。その言葉によって、そこに私の存在意義を見出すのです。
Ⅲ.本当の幸せを約束するいのちのパン
2つ目に、神の言葉である聖書を読むと何が起こるのかについて考えてみましょう。結論から言えば、本当の幸せを手にすることができるということです。
以前、ある教会員が私に「もっと礼拝で十戒を繰り返し説くべきなのではないでしょうか」と助言くださったことがありました。確かに長老派の伝統の1つに、礼拝の中で十戒を唱えることもあります。
十戒とはイスラエルの民がエジプトから脱出した後、モーセを介して神から与えられた10の戒めのことを指します(エジプト記20章)。
この十戒の目的は何かと言えば、「~してはならない」という、行動を禁止し束縛することにあるのでなく、逆に本当の幸せを授けるために与えられているものです。
そして「十戒」を初めとする聖書に出て来る掟の意味を説き明かしたのが、主イエスによって語られた「山上の説教」でした。ですからこうした箇所を深く学び直すことは本当に大切なことだと思います。
ただ牧師をしていて、また信仰生活をしていて感じることは、それだけでは足りないということなのです。
何故、子どもたちが非行に走り、簡単に自分を安売りするのかという問題を考える時、それは、盗んだり、姦淫したり、嘘をつくことが悪いことであると知らないからということもあるでしょうが、それに加えて、もっと深いところに原因があるのではないかと思われるのです。
それは、私たちの心の内に自分が価値ある存在なのだという実感に乏しいということにあるように思うのです。自分の価値に気づいていなければ、「それを大事しなさい」と言ったところで不可能なのではないでしょうか。
何か難しいことが起これば投げやりになる。元々生きる「かい」がないわけですから、好き嫌い、損得、快不快が行動基準となる。今後、この傾向が加速されていくように感じます。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」と語る聖書は、私の「製作者」である神だけが、私を造られた目的を持っておられ、知っておられる。その御心を言葉にした聖書を読むことで、創られた存在である私自身が、〈ああ、そうか。こういう目的をもって生かされているのだ。このように生きることで、私の心は満たされる。元々、そのように造られている。しかも、そのように造られている私は、造り主である神さまから見て、どれだけ大切な存在なのか。〉
聖書にはこうしたことが繰り返し、しかも「これでもか、これでもか」という感じで説かれていくのです。
先週から洗礼入会準備会が始まりました。1回目はベトザタの池にいた、38年間病で苦んでいる人と主イエスとの出会いについて学びました。
重い病に苦しむ、その人に向かって、主イエスは「良くなりたいか」と尋ねました。ところが、その人から素直な答えは返って来ませんでした。返ってきた答えは、いかに周囲の人たちが不親切なのか、自己中心なのかを主イエスに向かって訴えたのです。あなたは、病気が治りたかったから、ここに来たのではないのですか、と聞かれるまで、彼自身が、そこにいた理由が、自分自身でも分からなくなってしまったのです。
その説明をするために、私は「ウサギとカメ」のイソップの話をしました。元々、ゴールを目指して歩き始めたウサギとカメでしたが、次第にウサギにとって歩く目的が曖昧になってしまった。ウサギにとって歩く目的はカメに負けないことが目的になったからです。これに対してカメはゴールを目指すことが目的でしたからウサギよりも前にいるか後ろに居るかは大きな問題とはなりませんでした。
隅谷三喜男先生を招きした時、「人生の座標軸」という講演をされました。私たちは横との比較で、本当の意味での自分の位置を見出すことができないのです。他者と自分を比べ、どこかで劣等感や優劣感と結びつくからです。では、どうしたらよいのでしょうか。隅谷先生は、人生に神との関係、すなわち縦軸が必要だと言われました。
人生に縦軸が入った時に初めて、この世界で、この歴史において、私しか立つことのできない1点を見つけることができる。それが生きて行く上で何よりも大切なのだ、と語られたことを思い出します。カメにあって、ウサギになかったもの、それがこの縦軸、神さまとの関係でした。
「心のパン」である聖書を読み、親しんで行く時に、「私は本当にユニークで掛け替えのない存在なのだ」ということを知らされます。十戒の1つひとつによって、その都度、自分に問い、自分を責め、あるいは、自らを安売りする、そんな必要がなくなるのです。何故なら、自分自身であることに満足を覚えるからです。
世の中を見回す時、友人や周囲を見る時に、羨ましいと思える人が沢山存在します。でも、神さまが私たち一人ひとりに願っている生き方、幸いを手にする生き方は、羨ましいと思える人に近づくように生きなさい、というのではなく、あなたはあなたとして生きること、「松本雅弘」として完全燃焼して生きることです。その時に、本当の意味で充足を経験するのだと、心の糧なる聖書は教えているのです。
Ⅳ.御言葉を聞きつづける
最後の3番目、どのように「心のパン」である聖書を、そして説教を聞けばよいのかということです。結論から言えば自分のこととして読む/聞くということです。礼拝の後、「今日のお話は、私に語られた言葉として聞えました」という感想を話して出て行かれる方があります。その時、私は、「あなたが働いてくださいました」と天を指さしたくなります。説教の準備をする際に、その人を想定して準備したわけではないことを、私は知っているからです。でも、神さまがその人に語りかけてくださったから、心に響く言葉となったのだと思います。ある時、主イエスは「聞く耳のあるものは聞きなさい」といわれました。これは、《聞く耳を持つ者と聞く耳を持たない者がいる》ということでしょう。ですから、大事なことは、《聞く耳をもって聞く》、分かり易く言えば、《自分に当てはめて聞く》ということです。そうすると、今日の御言葉、「人はパンだけで生きるのではなく。神の口から出る1つひとつの言葉によって生きる」ということが、その人の人生において現実のものとなっていくことです。そして、私たちを《生かす力》となるのです。お祈りします。