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主日共同の礼拝説教

あなたのうちに働く御言葉

和田一郎副牧師
申命記6章4-15章 テサロニケの信徒への手紙一2章13-16節
2019年9月22日

はじめに

先日、スチュワードシップバザーの時に、気仙沼から嶺岸浩牧師が来てくださり説教をしてくださいました。嶺岸先生の教会と自宅は、東日本大震災の時に津波で流されましたが、先生ご夫妻は日本中の教会から来たボランティアと一緒に被災者を支援をしていました。ご自分も被災者でしたが、いつも笑顔で「感謝です」と言いながら支援活動をされていました。嶺岸先生というと「感謝」という言葉が浮かんできます。津波であらゆるものを失ったにもかかわらず、感謝している先生の姿を見て、今あるものに感謝して、明日に希望をもつこと、これこそ信仰だなと、学ばされた思い出があります。その嶺岸先生がよく口にする聖句がテサロニケの信徒への手紙一 5章16-18節です。「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
そして、今日与えられているテサロニケの手紙の箇所も、パウロが感謝を伝える思いがベースとなっています。13節「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。」

1、神の言葉(聖書)

パウロの言葉を、神の言葉として受け入れるとは、どういうことでしょうか。16世紀のヨーロッパで作られた、『第二スイス信仰告白』という告白文があり、そのはじめに「神の言葉の説教が、神の言葉である」と書かれています。最初の「神の言葉」というのは、聖書を指しています。つまり、聖書から説き明かされる説教は神の言葉だということです。聖書は神の言葉であり、説教も神の言葉とされています。聖書を実際に書いたのは人間ですが、人の知恵だけで書かれたものではないのです。パウロも聖書を書いた人の一人ですが、テモテへの手紙二3章16節で、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」た、と語っています。聖書の著者は、それぞれの書ごとにいるのですが、その人の思いや知識だけで書かれたのではなく、その人の賜物を用いた神様の霊の導きによって書かれたものです。神の霊によって神の言葉が記された、それが聖書です。
もちろん、私たちが手にしている聖書は、著者が神様の霊によって書いた原典の写本を翻訳して印刷したものですが、記されている言葉は神の言葉そのものです。ですから私たちは聖書の言葉を、単なる文章とは扱わないで「御言葉」と呼ぶわけです。
キリスト教は迫害を受けてきた歴史があり、今も弾圧があります。中国では聖書を没収してしまうということが行われているそうです。そのようなことがあっても、世界中の人々に聖書が今も求められているのはなぜでしょうか。それは、多くの人が、聖書を「神の言葉」として、信じているからではないでしょうか。聖書には、人知を超えた真理があり、力があるからこそ、求めているのでしょう。聖書は神の言葉として力がある。その力を信じて、いつの時代も人は聖書を求めるのです。

2、神の言葉(説教)

もう一つの神の言葉、説教について考えてみます。パウロは伝道のために、行く町々で説教をしました。それは旧約聖書に基づいて説教をしたのです。そのパウロの説教を、パウロの言葉としてではなく「神の言葉」として受け入れてくれたことに、パウロは神に感謝しているのです。パウロは、自分は神の言葉を語っているという確信がありました。
「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」(コリントの信徒への手紙一の2章12節)。
パウロは、ダマスコという町に行く途上でイエス様に出会いました。光に照らされて、イエスは「わたしはイエスである」と語りかけました。イエス・キリストは十字架で死んだはずだと思っていたパウロにとって、復活されたイエス様に「語りかけられる」という出来事は、衝撃的な出来事でした。生ける真の神様は語りかける神です。今日の旧約の聖書箇所では「聞け、イスラエルよ」と力強く語られました。語ることで御自身の御心を明らかにされ、神の民は「お語りください、僕は聞いております」という思いで聞くのです。パウロはキリストと出会いましたが、テサロニケや他の教会の信徒は違います。イエス様と直接出会っていない人に、パウロはイエス様を、生ける真の神であると説教をしたのです。
説教はその意味では、目には見えない霊的な存在を現実として説き明かすということです。すなわち、神は生きておられる。この世界の中心は、目に見える私たち人ではなく、目には見えない生ける神にあるということを告げる。そして、そのことを信仰をもって聞くところに、私たちの信仰生活の中心である説教があります。
数千年前に書かれた過去の文章を聞くのではないのです。時間という枠を超えて、今を生きる神様が私たちに語りかけてくる言葉を聞くのです。今、ここにおいて、イエス・キリストや弟子たちの出来事を、聖書から聞き、現代に生きる人々に証しするのが説教です。
13 節には、「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」とあります。神の言葉は、その人の中で生きて働きます。パウロの言葉は、テサロニケの人々が神の言葉として受け入れた時、生きて働いたのです。語る者も、聞く者も「神の言葉」として信じる時、生きた神の力が働きます。

3、ユダヤ人とクリスチャン

パウロは14節以降で、自分の宣教の働きを妨害し続けた、ユダヤ人のことを批判しています。もともとキリスト教はユダヤ人の民族宗教であるユダヤ教から生まれました。十二人の弟子やパウロもユダヤ人でした。何よりもイエス様はアブラハムの子孫、ユダヤ人としてこの地上に生まれました。パウロの伝道活動によって、多くの異邦人クリスチャンが起こされましたが、一方でペトロが担っていたユダヤ人への伝道は困難を極めたようです。
その後、ローマ帝国がキリスト教を国の宗教として認めていくなど、ますます異邦人クリスチャンの数がユダヤ人クリスチャンを上回っていきます。そして、15節にあるように「主イエスを殺したユダヤ人」として、クリスチャンがユダヤ人を迫害するという悲劇の歴史が続いていきます。そして、その頂点は第二次世界大戦のナチスドイツによるホロコーストへと繋がっていきます。
しかし、このホロコーストという大悲劇の後、その反動もあってユダヤ人への理解が深まっていきました。キリスト教会もユダヤ教の背景を正しく研究することが進められ歩み寄っています。そして、ユダヤ人の中からクリスチャンに回心する人が増えているということが近年起こっています。

4、あなたのうちに働く御言葉

クリスチャンとして救われた者も、罪の性質は残っています。キリスト教会も、その歴史においてユダヤ人を迫害するという過ちを続けてきました。こういった過ちは、どうして起こり、また繰り返さないためには何が必要でしょうか。それこそ、聖書の御言葉を神の言葉として、扱うことにあるのです。パウロはユダヤ人を批判することもありましたが、ローマの信徒への手紙の中ではユダヤ人の救いを信じて疑いませんでした。ですから聖書を神の言葉として、忠実に聞くことです。聖書の言葉を、人の知恵で、足したり引いたり、すり替えた所に過ちがありました。今でもそれは起こり得ます。聖書の言葉が正しく語られ、信仰をもって聞かれた時、罪を遠ざける力が働きます。
今日ははじめに、テサロニケの手紙から、「感謝する心」について話をしました。「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。
わたし達が、神の言葉を神の言葉として受け入れた時、喜びと祈りと、感謝の心が湧いてきます。どんなことにも感謝して、神様の言葉が働かれる一週間でありますように、祈り求めていきましょう。お祈りをします。