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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

信仰の友

和田一郎副牧師
詩編124編1-8節  テサロニケの信徒への手紙一2章17-20節
2019年9月29日

1.「兄弟たち」

今日の説教は「信仰の友」がテーマとなっています。パウロとテサロニケ教会の人々との、信仰で繋がれた友という関係です。私たちは、神様のなさる、救いの御業を奇跡といいます。私たち人間は、神様に背を向けていた罪人です。罪人である人間が救われる、これこそ神の御業、奇跡です。
テサロニケの人々は、パウロを通して、キリストを知り、キリストの奇跡にあずかって救われました。パウロは、町を離れた後も、テサロニケ教会のために祈り続けていたのです。
「ちょうど母親がその子どもを大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです」
(1テサロニケ2章7-8節)。
パウロは、テサロニケの人々がしっかりとした信仰を保てるように、自分の命を与えたいと願うほど、この教会を愛していたのです。まさしく身を差し出して献身的にキリストを伝えたのです。そして、父親のような力強さで伝道を続けました。
パウロは、伝道に専念するために、テサロニケの教会から、生活の面において、支えてもらうこともできたと思います。しかし、パウロはそうはしませんでした。パウロは天幕造りという職業をもちながら伝道をしたのです。
それは、パウロが信仰の面だけではなくて、日常生活においても模範となるように考えたからです。「働かざる者、食うべからず」という言葉があります。自分で働いて自立しなさいという意味で使われますが、この言葉はパウロが言ったテサロニケの手紙二3章10節の言葉がもととなった諺です。
それと合わせて、テサロニケの人たちに負担をかけまいという思いもありました。これをクリスチャンの模範として欲しいという思いです。パウロがテサロニケに滞在していた時、教会全体と信徒一人ひとりに対して、身を挺して献身的な態度で接しました。

2.テサロニケ再訪の願い

そうであるがゆえに、テサロニケでの伝道を妨害されて、命からがら逃げてきたパウロにとって、テサロニケの人々と、引き離されているような状態を嘆いているのが、今日の聖書箇所17節の言葉です。
「引き離されていた」という、原語は「引き離されて孤児の状態になる」という意味の言葉です。引き離されて、自分は孤児になってしまったかのようだ、という意味の言葉を使っています。
パウロは、新約聖書で多くの手紙を書いていますが、ここの「孤児になる」という言葉や、他の箇所で「養子になる」というギリシャ語の言葉を使っています。
ローマ帝国には、孤児を保護したり、救済する制度がありました。逆に言えば孤児となる子どもが多くいたようです。その孤児たちを救済する制度として、養子縁組という制度が当時からありました。
戦争や紛争また感染症などが流行するところで孤児が生れますが、日本も戦争によって、多くの戦災孤児が生れたと聞いています。テレビドラマで、戦災孤児を扱った話がありました。終戦直後、両親を亡くした3人の兄弟たちがいました。当時、孤児となった子どもたちは、物乞いや、盗みをしないと生きていけなかった。ドラマの主人公は靴磨きで、その日その日をしのいでいました。ドラマの中で、警察による「刈り込み」というシーンがありました。
これは実際にあったことで、浮浪児を一掃するようにという進駐軍からの命令があり、強制的に保護をして孤児院に強制収容していたのです。子どもたちを「一匹、二匹」と呼ぶような、人間扱いをしない行為があったのです。戦災孤児は差別されましたから、自分が孤児であったことを、多くの人は口にしません。
ドラマでは、その孤児となった主人公が北海道の農家の家族に迎えられて、成長していく姿が描かれています。人間扱いされなかった孤児が、その家族の子とされた。家族となっていった人生は、孤児であった境遇から比べると、劇的に温かな環境です。
戦中、戦後に中国から引き上げてきた人の中で、孤児になるのか、ならないか。家族の中にいるのか、いないのか。その違いは、言葉では言い尽くせないと聞きました。
パウロは、新約聖書の中で、天地を創造された神様を知らない人は孤児のようだ。その孤児が、イエス・キリストを主と信じることによって「子とされた」、「神の家族」とされたのだと説いています。
今日の聖書箇所17節で、テサロニケの人々と会うことができない自分を、「引き離されて孤児」のようだと表現しているのは、そのような悲惨な立場にある孤児のような心境だという含みがあります。
引き離されたのは、パウロだけではなく、相手のテサロニケの人々も同じ思いがあったと思います。福音の真理についても、クリスチャンとしての生活の在り方についても、身をもって教えてくれていたパウロと引き離されるというのは、放り出されて孤児になったような思いです。まだ、できたばかりのキリスト教会にあって、パウロと引き離されたことは、父と子が引き離されたような嘆きが、お互いにあったのです。

3.サタンによって妨げられる

そのような思いがあって、18節にあるように、パウロはテサロニケに行こうと、一度ならず計画を立てたようです。しかし、それを果たせずにいました。
パウロがテサロニケに行こうとして、行けない理由は分かりません。しかし、「サタンによって妨げられた」とあります。あの町での伝道をさらに強めたい、というパウロの願いが実現していないのは、サタンの妨げによることと理解しているのです。
わたしたちは、どういうことがサタンの働きなのだろうか、と考えることがあります。神様の働きを妨げるのがサタンの働きです。今もその力は、わたしたちの周りに見られます。時には、明確な迫害のようなかたちで、時には神様の働きであるかのように見せかけて、間違った方向に仕向けるということもあるのです。
しかし、そのようなことがあっても、パウロは落胆して、その働きを止めようとしませんでした。それは、真の神様へ心を向けていたので、主の助けを得ることができたからです。
今日お読みした旧約聖書の詩編の言葉も、サタンのような敵を前にしても、神様が味方にいて、主の御名をたたえるところに、逃れの道があることを唄った詩です。
「主をたたえよ。主はわたしたちを敵の餌食(えじき)になさらなかった。仕掛けられた網から逃れる鳥のように わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。わたしたちの助けは 天地を造られた主の御名にある」
(詩編124編6-8節)。
「サタンの餌食にならなかった、その助けは主の御名にあった」という、その確信があります。
思い通りにならず、サタンの妨げを感じていた時も、パウロは、この働きが神様の御心だと信じていました。
行けないなら手紙を送る、自分は行けないけれど別の人に行ってもらう。この時はテモテという信頼できる人を派遣しました。
自分が行けないことで、塞ぎ込んでしまうのではなく、神様の助けを信じていたのです。それは、パウロの目線が終末の希望にあったからです。19節以降から、パウロは終末において神様が完成して下さる救いを見つめているのです。

4.主イエスが来るとき

「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前で、いったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠(かんむり)でしょうか」。(19節)
イエス様が再び来られる時、テサロニケの人々こそが、パウロの希望であり、喜びであり、誇るべき冠であると、これ以上ない表現で信仰の友について喜びを表しています。
讃美歌580番の「新しい天と地を見たとき」は、再臨の時を唄った讃美歌です。そこには、私たち神の民は、この地上では不完全ですが、生まれ変わって神の民として、神と共にいるようになる。互いに愛し合うということが、完成された様子を唄っています。
まとめ
現在に目を移しますと、どこの教会でも、テサロニケ教会のように素晴らしいことばかりではありません。伝道者にも人間的な欠けや弱さや罪があります。また、兄弟姉妹の中にも同じように弱さがあります。
しかし、そのようなわたしたちの不完全さも、イエス・キリストが来られる再臨の時に、キリストの愛で完全なものとされるように、今もイエス・キリストの愛で愛することができるのです。
不完全な私たちの愛を完全なものにしてくださるのは、イエス様の愛です。このイエス様の愛に委ね、信頼して歩んでいきましょう。お祈りいたします。