松本雅弘牧師
マタイによる福音書25章1~13節
2019年10月6日
Ⅰ.「天の国」とは?
「天国」という言葉を見たり聞いたりすると何を思い浮かべるでしょうか。「死んだ後、行くところ」とか「空の遥かむこうの世界」ということを想像することが多いように思います。
それに対して、聖書が教える「天の国」、別の言い方をすると「神の国」は、天地万物をお造りになった神が王として支配されている領域、世界を意味しています。
神さまの愛の御心、その愛の御心は聖書の中に示されていますので、言い方を変えるならば、聖書の価値観が基準となっている世界を「天国」と呼びます。聖書は、神さまが教える価値、聖書の価値観が基準となっている世界のことを、「天国」と呼んでいます。
今日の箇所を読みますと、主イエスは、天の国の価値観、天国の価値基準はこのようなものですよ、と言って、今日の箇所の小見出しにありますように、「十人のおとめのたとえ話」をお語りになったわけです。
Ⅱ.「十人のおとめ」のたとえ
このたとえ話は婚宴の始まりの場面から語り出されていきます。婚宴の始まりにともし火を持って花婿を迎えに行くとは大変美しく喜ばしい光景です。
選ばれた十人のおとめたちは、結婚式の中でもとても大切な務めを果たす役割が与えられています。ところが十人のおとめたちには2種類の人たちがいました。それは愚かなおとめと、賢いおとめでした。愚かな5人のおとめたちの「愚かさ」がどこにあったかと言えば、「備えが出来ていなかった」ということです。
花婿が到着するのが遅れたために、到着した時には、愚かなおとめたちのともし火は消えてしまいました。そのため賢いおとめたちに油を分けてくれるように頼んだのですが、彼女らは「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と、見方によっては冷たくあしらったのです。
結婚式とは本当に幸いな時、2人の新しい門出を祝福し喜びを共にする時です。この十人はそうした結婚式の中で大切な役目を担わされていました。その役目とは「ともし火を灯し、花婿を迎える」ということです。ですから、仲間のおとめが油を切らしたなら、余分に持っている者たちが協力し、この場を乗り切ることはできなかったのかと思います。でも、そうしませんでした。
こうして油を分けてもらえなかった愚かなおとめたちは、賢いおとめたちのアドバイスに従い、町に油を買いに出かけます。幸い、店で手に入れることができました。そして急いで祝宴会場に戻ります。ところが主人は扉を開けてくれないのです。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と言って締め出されてしまいます。
主イエスは、そういうたとえ話をここで語っておられます。このたとえ話を繰り返し読んでみると、一つのことに気づかされます。それはイエスさま御自身が、この時の賢いおとめたちの言動を否定せず、むしろ肯定している点です。ここに、たとえ話を説き明かすヒントが隠されているように思うのです。
Ⅲ.大切なことを大切にする生き方
数年前、興味深い本が出版されました。『聖書に学ぶ子育てコーチング』という本です。内容は、ひと言で表現するならば、「子離れ・親離れ」の本です。
子どもが生まれて間もない時は、食事から始まり、排せつ、服の着せ替え、一から十まで親がかりです。でも成長するに従い、自分で食べるようになり、トイレに行くようになり、服も着たり脱いだりするようになります。
でもよくよく考えてみますと、実はそれは錯覚で、ミルクを作り子どもの口元まで持っていくのを、飲むかどうかは子ども自身がすることで、誰であっても子どもに代わってやって上げることのできない領域です。その1つに排せつもあります。排せつし易いようにオムツを替えることがあっても、実際に排せつできるのは本人だけで、親が代わることはできないのです。つまり、親子であっても夫婦であっても、お互いは、代わることのできない存在だからです。
ここでイエスさまは、この十人のおとめに与えられた責任や役割は、本当に晴れがましく、しかも大切なものであることを確認する一方で、他の人が代わり得ない重要な役割なのだということを教えているのです。
賢いおとめが余分な油を持っていたなら分けてあげてもよかったのではないかと思う、と申しましたが、でも現実は、初めから余分なものなどないのです。人から譲り受けてどうにかなるのではなく、自分で準備しなければならない「油」というものが、私たちの人生にはある、ということを教えているように思うのです。
例えば会社や家庭、地域社会の中で、他の人が代わることのできない役割をそれぞれがお持ちなのではないでしょうか。その務めに精一杯生きることが求められ、しかもそうした務めに生きるということは、ある意味で婚宴の喜びを共にするように、人生で1回限りの掛け替えのない時でもあります。
私たちは、実はそうした時を、日々生きているのだと思うのです。ここで主イエスは、私たち一人ひとりが、このような大切な時を逃してしまうことほど、愚かしいことはないのだと教えているのです。言い換えれば、本当に大切なことを大切にする生き方をするようにと説いておられるのです。
Ⅳ.後回しにしてはならない大切な課題
ともし火は目立つものです。それに対し油は周りからは見えません。でも見えない油がなくなると途端に灯りは消えてしまう。油がなければ灯も、いざという時に役に立たないのです。まさに「油断大敵」です。
私たちは人々の目に映るところで日常生活を営みます。会社で一生懸命働き、子どもを育て、あるいは地域社会において活動をします。
それは、ともし火のように、周囲から見える部分でしょう。でも、その見える部分を支えているのが、実は外からは見えない油の存在。しかも見えないだけでなく、今日のたとえ話が教えるように、他の人が私に代わって用意できないものです。
私たちに当てはめるならば、そうした油とは何に相当するのでしょう? その一つは、「関係」だと思います。具体的には夫婦の関係、親子の関係、家族の関係、そして職場や学校での人間関係です。場合によっては「自分自身との関係」ということもあるでしょう。自分の心や体をどうメンテナンスしているか。自分が抱える心配事や悩みとどう向き合っているか、そうした意味での「自分自身との関係」があります。そして、さらに聖書は、大切な油の1つとして、「神さまとの関係」についても教えています。
こうした「油」は周囲からは見えません。でも私たちの働きや活動、日常の営みという、「ともし火」を灯し続ける大切な油なのです。そうした油があるからこそやって行けるわけです。
以前、あるアメリカの牧師夫人がバプテスト教会の牧師の家族向けの講演会で語ったテープを聴いたことがあります。
その教派はとても大きな団体です。そこには何千、何万と言う教会があることでしょう。そこで働く牧師やスタッフの数もたいへんなものです。ところが毎年、何十人、いやそれ以上の数の牧師や教会スタッフがその働きから離れていく。今日のたとえ話のように、「油」を切らしたように一線を退いていく。その第1の理由が夫婦関係だそうです。
もっと正確な言い方をするならば、色々な意味でストレスの大きい働きに、連れ合いがギブアップしてしまう、というのです。外から見ていると牧師もしっかりやっている。言わば彼のともし火はしっかりと灯されている。でも、周囲から見えないところにおいて、実は少しずつ「油」が切れ出しているというのです。
いや、これは牧師だけではありません。子育て中の人も、また会社で働いていてもそうだと思います。ちょうど背広でも裏地があるので、この表の生地(きじ)がしっかりするのです。油というエネルギーがあるので、ともし火を灯すことができるのです。
でも油の備えがない時に、必ず行き詰る。場合によっては、大事な関係までも犠牲にし、見える世界での成功を求め、一生懸命にともし火を灯そうとしている。こうしたことってないでしょうか。
このたとえ話を通して、イエスさまは、そうした「油」、つまり夫婦や親子の関係、他の人が私に代わって準備することのできないもの、そうした部分で、自分の人生をどう生きるのか、これは後回しにしてはならない人生の課題であると、私たちに伝えていることを覚えたいと思うのです。
イエスさまは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と教えてくださいました。
今日、礼拝に出席したことを機会に、私たちの心の糧、今日のたとえで言うならば、私たちがそれぞれに準備しておく油としてのエネルギーを、神さまからいただき続けていきたいと願います。お祈りいたします。