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主日共同の礼拝説教

人のことをとやかく言う前に―聖書が教える豊かな人間関係

松本雅弘牧師
マタイによる福音書7章1節―7節
2019年10月20日

Ⅰ.裁いてはならない?

今日の聖書の箇所は、主イエスの教えの中でも大変有名な「山上の説教」と呼ばれる、一連のお話の中に含まれています。
主イエスは「人を裁いてはいけません。あなたがたも裁かれないようにするためです」と語りますが、主イエスは、「相手の過ちや罪を大目に見て、いざという時のためにその人に貸しを作っておくことが賢い人間関係の秘訣ですよ」と教えておられるのでしょうか。
今日はここから聖書の教える豊かな人間関係について考えてみましょう。

Ⅱ.「裁くな」と教えられた背景

ここで「人を裁くな」と語られた言葉は、ファリサイ派や律法学者と呼ばれる、当時の指導者層の人々に向けて語られたものだと言われています。
実は、彼らは聖書の律法や規則に精通し、それに反しない生活を心がけていました。ただ問題は自分に厳しいだけではなく、他の人々にも、とても厳しい人たちだったのです。ちょうど、自分が一生懸命やっているのに、他の人がのんびりしていると、赦せず腹が立ってくるということがありますが、まさにそうした心を持つ人たちでした。
彼らは、自分たちが一生懸命やっている分、周囲の人たちにもそれを要求していた。いい加減でのんきに見える人を許せない。こうしたことは日常生活でよく起こることだと思います。
「自分はこんな大変な思いをしているのに」、「これだけ頑張っているのに」、「あの人にあれだけ親切にしてあげたのに、お礼のひと言もない」とか…。
良い動機で始めたのです。自分で決めて始めたことなのに、困難に直面すると次第に余裕もなくなり、周囲を責め始めるのです。
「人を裁くな」という教えには、実は、こうした当時の背景があったことを心に留めたいと思います。

Ⅲ.大きな落とし穴

人を裁き、弱点を指摘する時、私たちは「あなたの目からおが屑を取らせてください」と言っているようなものだ、主は言われるのです。つまり他人のことをとやかく言うということです。
しかも「このおが屑さえなければ、この人は幸せになれるのだから」と、あくまでも善意で、相手を思いやる気持ちから「取らせてください」と真面目に言っている。しかし、そこに落とし穴があると主は言われるのです。
考えてみれば、「おが屑」とは本当に小さな物です。前に使っていた聖書では「ちり」と訳していました。そして仮に、どんなに小さくても、そうした「おが屑」が目の中に入ったら、ゴロゴロして目が痛みます。涙も止まらない。鏡の前に近づいて見るのですが、ゴロゴロする違和感はあっても、どこに「ちり」があるのか、本人でも見つけられない。それが「おが屑」であり「ちり」です。
そうした、本人も分からない。あるのか、ないのかも分からないような「おが屑」を「あなたの目から取らせてください」と言ってのけてしまうというのです。
主イエスは、このように言ってのける人に対して「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」と言われるのです。ひと言で言えば、人のことをとやかく言う前に、自分の課題と取り組むようにということです。
カウンセリングでは、「変えることのできないものが2つある」と言われます。1つは「他人」、そしてもう1つは「自分の過去」。また、同じくカウンセリングの場面で「変えることのできるものも2つある」というのです。それは「自分」と、「過去の意味」の2つです。
ここで主イエスは、まず自分自身を理解するように。自分の「丸太」に気づくように。そして、先ずはその丸太を取り除くように、と勧めます。
カウンセリングの言葉を使うならば、自分の課題に気づき、それと取り組み始めなさいということです。すると不思議なことに、相手が変わってくる。その結果、両者が変わってくる、ということを約束してくださっているのです。
ある夫婦が問題を抱えています。お話を聞くと、結局、互いを責め合っている。でも第三者から見た時、それぞれに課題があることが分かります。そしてもう1つ確かなことは、互いの欠点を責め合っている間は、2人の間に何も起こらないということです。多くの場合、私たちは、自分の課題を自分の責任として受けとめず、環境を責め、特に他人を責めます。ある時は親を責めたり、子どもを責めたり、職場の同僚や上司を責めたり、部下を責めたりしてしまいます。
誰もが経験することですが、このような場合、事柄は一向に良い方向には動きません。「子どもが変わらなくて困る」と言われている。そこで、息子さん本人に話を聞いたら、「母親が頑固だから、俺は決して譲らないんだ」と答えるかもしれません。でも、ほんとうに不思議なのですが、片方が自分の丸太に気づき始める、自分の問題と取り組み始めるとそこに変化が起こってくるのです。
いつも責めて来る、その人の態度や出方が変わったことで、会話のパターンや喧嘩のパターンが崩れ、そこに必ず変化が起こるのです。
もう1つお話ししたいこと、例えば、明らかに相手に問題がある、そのような場合があります。確かに、主イエスは、ここで他人を裁く前に自分自身を振り返るように教えています。でも明らかに難しい相手である場合もあります。場合によっては、「敵」のようにしか思えない人もいるかもしれません。
同じ山上の説教の中で、主イエスは「敵を愛しなさい」と教えています。私たちにとっての、本当に難しい人、「敵」のように思えるような人と出会ったらどうするのか。
ある方がこんなことを語っていました。人間をレタスに置き換えて考えなさい、というのです。例えば、レタス栽培をして、一生懸命に肥料をやって、雑草を抜き、そして水をやって育てるのですが、なかなかうまく育たなかった。収穫はしたが、あまり出来の良いレタスではなかった時に、あなたはどうするか考えて御覧なさいというのです。そのような時、そのレタスに向かって「何でうまく育たなかったのか!」と言って責めるでしょうか? あるいは「何でお前は出来そこないなの?」と言って裁くでしょうか。
そういうことはしないでしょう。むしろ、「なぜ、こうなったのだろうか」と理解しようとするのではないでしょうか。そして次に、「私に出来ることは何だろうか?」と、レタスを問題視する代わりに、その為に、私自身が出来ることを見つけようとするでしょう、と。
課題のある人と対した時に、その課題を指摘するのではなく、理解しようとする。ちょうどレタスを見る時のように、相手を責めても仕方がないので、その人が育った背景、受けてきた教育、家庭環境などを理解しようとする。すると不思議なのですが、今まで難しいと思ったその人に対する、私の見方が変わって来る。その結果、その人に対して優しくなれるのです。

Ⅳ.十字架の赦しの前に生かされる

さて、今日は、「他人のことをとやかく言う前に―聖書が教える豊かな人間関係」という題でお話をさせていただいていますが、まとめますと、まず、私たちがすべきことは、自分を知る、ということ。そして次に相手を知る、相手を理解する、ということを考えてきました。
神さまの前に、まず、自分の丸太に気づかせていただくのです。そして、私が相手を変えることはできません。自分の過去も動かないかもしれない。でも自分を理解し、自分の目にある丸太を取り除けることから取り組み始めると、日常の人間関係のパターンに変化が起こってきます。すると不思議と相手の出方も変わってくるのです。
そして何よりも大切なこと、それは神さまがこの私をどのように見ていてくださるのか。そしてまた、神さまが、その人をどのように思っていてくださるのかを知る、とうことです。
教会に来ると必ず目にするものがあります。それは十字架です。今では、ネックレスやペンダントになって、十字架はクリスチャンでない方もアクセサリーとして身につけています。でも、元々は人を処刑する時の道具です。
その十字架を、教会は2千年の間、キリスト教のシンボルとして大切にしてきました。このことを表わした有名な言葉があります。それは「聖書の聖書」と呼ばれるヨハネ福音書3章16節です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
つまり、私たちは赦され、生かされている者同士。神さまからそれ程までに愛され、赦されていることを知ると、周囲を見る私の見方が変わってくるのです。赦され、愛されている者として、私も生かされている。それだから、という優しい見方が与えられてきます。そうした中で、本当の意味での豊かな人間関係が与えられていくのです。お祈りいたします。