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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

神の愛を実感する交わりづくり

松本雅弘牧師
ヨハネの手紙一 1章1節―4節、4章19節
2019年11月3日

Ⅰ.主題聖句と主題

本日、来年度の活動方針の総論部分を配布しました。来年の主題聖句は、ヨハネの手紙第1の4章19節、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」という御言葉です。そして、主題は、「神の愛を実感する交わりづくり」としました。

Ⅱ.ほんとうに知るとは知っていることによって人間が変わること

聖書は、私たち教会、そして教会を形成する私たち一人ひとりが目指すべき方向性が、神の愛に生きることだと教えます。
そのために神がまずどれだけ私たちを愛してくださっているのかを実感することがスタートですよ、と語るのが、来年の主題聖句なのです。
そしてその愛とは、好きだと感じてくださっている以上のことで、神は御意志をもって私たちを愛すると決断しておられるということなのです。
「神を知ること」と「神について/関して知る」ことの間には大きな開きがあります。よく紹介する言葉ですが、デ・メロというクリスチャンは、「ほんとうに知ることは、知っていることによって人間が変わることです。」と語っていますが、まさにそういうことです。
来年度の主題、「神の愛を実感する」は、そのことを祈り求めていくことを願っているのです。

Ⅲ.「仲間を赦さない家来のたとえ」から

私は説教の準備をしながらマタイによる福音書18章にある「仲間を赦さない家来のたとえ」を思い出しました。そのたとえ話にはこのようなことが語られています。
主君が家来に1万タラントンのお金を貸していました。これは想像を超えるような額です。次に百デナリオンの借金が出て来ますが、こちらは想像がつきます。1デナリオンは当時の労働者1日分の賃金に相当します。仮に1日分の賃金を5千円と計算すれば、百デナリオンは五十万円の借金です。
では最初に出てくる1万タラントンの借金はどのくらいの額なのでしょうか。計算してみると三千億円です。1人の人間が働いて返せる額ではありません。どんなことをしても不可能な額です。
このたとえ話に出てくる主君は神さまをたとえているのでしょう。そのお方に対する人間の罪、負い目は私たちが一生かかって努力し、償おうと頑張ったとしても償い切れないほどのものです。にもかかわらず、神さまは私たちを赦してくださった。このたとえ話を聞く時に、そうした私たちと神さまとの不釣り合いな関係を思い起こさせられます。
一度、たとえ話の筋を追ってみましょう。話は1万タラントンの借金をしている家来が、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに頼むところから始まります。主君はその家来を憐れに思い、彼を赦し、借金を帳消しにしてやったというのです。
赦された家来は心の中で「やったー」と両腕を突き上げたことでしょう。心から感謝し、主君の前を離れ街に出ますと、そこで、自分がお金を貸している仲間に出会うのです。
その額は百デナリオン。先ほどの計算によれば五十万円ほどです。家来はどうしたかというと、その友人を捕まえ、首を絞め、「借金を返せ」と言った、というのです。
その友人は「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼むのですが、大きな借金を赦されたはずの、その家来は友人を赦さず、借金を返すまでと、牢に入れてしまいます。
こうしてたとえ話は最後の場面に移ります。牢屋に入れられた人の知り合いが主君に直訴します。すると主君は再びその家来を捕まえ、「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と、今度はその家来を牢屋に投げ入れたという結末です。
主イエスは、このたとえ話を、そこにいたペトロや弟子たちに語り聞かせながら、「これこそがあなたがたが常日頃、行っていることですよ」。そして、その根本原因は何かと言えば、「赦されている実感がない。だから他人を赦すことができない。そうした残念な現実があるのですよ」と語っておられるように思うのです。
今日も、礼拝の中で「主の祈り」を祈ります。「私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しますから」と祈ります。この祈りのベースにあることは何かと言えば、神さまが私たちを赦してくださることと、私たちが誰かを赦すということは切っても切り離せない関係にある。セットであるということです。
クリスチャンとなった私たちが、常に心に留めるべき恵み、それは無条件の神の愛なのです。主君がこの家来を赦してやった時、何の条件もつけなかった、その事実です。想像もつかないほどの、この神の愛を思い巡らす中で、私たちの心に必ず変化が起こります。私自身が赦せる心、愛する心を持つ者へと変えられていくのです。
旧約聖書のレビ記には、ぶどうの実の収穫の時、残っている房を全部集めるとか、麦の穂を刈り取った後に、取り残した穂を全部拾い集め、「これは皆、私の物、誰にもあげない」と言うのではなく、落ちたままにしなさい、残ったら残ったままでよい、いや、むしろ敢えて残すように、と語られています。
何故かというと、収穫する当てもない、やもめたちや身寄りのない子ども、寄留者たちのために「さあ、どうぞいらっしゃい、あなたがたの取り分はここにありますよ」と言ってあげるためなのです、と教えるのです。その理由は、申命記24章18節にあります。「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」
そうです。あの出エジプトの出来事の背景に何千何万匹もの小羊によってエジプトの隷属からの解放がありました。そして、私たちにとっての出エジプト、罪の隷属からの解放、罪からの救いをもたらしたのは、世の罪を取り除く神の小羊である、主イエス・キリストの十字架です。申命記で言われる「あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい」とは、十字架の贖いを思い起こすことなのです。
今日、お話しした「仲間を赦さない家来のたとえ」のあるマタイによる福音書18章以降で、主イエスは十字架に向かって歩まれるわけですが、受難の道を歩まれる主イエスは、私たちの負い目を追求されるのではなく、その罪が赦されることを十字架において明らかにされるのです。
そういう神さまの慈しみ深い御心に気づく時、その温かな愛の心に触れる時、私たちは赦された者、負債を免除にされた者、つまり神に愛されている者として、心の内側に必ず変化が起こって来ます。その恵みに浸る時に、感謝と喜びが起こってくるのです。ですから赦しとは何かと言えば、それは単に我慢を強いることではなく、赦しの愛に触れた私たち自身が変えられることです。
私たちは毎週、「派遣の言葉」をもって派遣されて行きます。「平和のうちに世界へと出て行きなさい。」私たちが神の平和で心満たされて出て行く、ちょうど、ガリラヤ湖にヘルモン山の雪解け水が流れ入るように、私たちの心に神の恵みと平和が注入されている状態で、その平和を携えて世界へと出て行きなさいという派遣の言葉です。
力強い神が共におられ守って下さるのだから、私たちは勇気を持つことが出来るのです。そして神ご自身が全ての善悪の決定的な基準ですから、そのお方の前に生きている者として、私たちは、「いつも善を行うように努め」る者として生かされています。
そのお方が、最終的に悪に報いられるわけですから、私たちが自らの手で悪に報いる必要はありません。むしろ相手の益を求め、「気落ちしている者たちを励まし」、弱さを抱えている人たちの支えとなり、困難の中にある人を助け、すでに神さまから最大のリスペクト、尊厳ある者とされているわけですから、すべての人を尊重するように。そのようにして、主を愛し、主に仕え、聖霊の力によって喜ぶように、と召されています。
辛くなる時、もう一度、神さまの愛のシャワーを浴びましょう。「あなたは私の愛する子。あなたは私の喜び/あなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」。この御声が聞こえる場所に逃げて行きましょう。そこに身を置きましょう。その愛に心満たされ、再び立ち上がり、そしてその愛を届けさせていただきましょう。
2020年の主題聖句「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」は、そのようなことです。

Ⅳ.2020年活動方針「総論」から

私たち高座教会は、「4世代が喜び集う教会」を、教会のあるべき姿として掲げています。
そうした中で、来年は「神の愛を実感する交わりづくり」を主題として、子どもたち、若者たちの成長に思いを寄せて、心をひとつにして過ごしていきたいと願っています。