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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

聖なる生活

和田一郎副牧師
出エジプト記3章1-5節、Ⅰテサロニケ4章1-8節
2019年11月24日

Ⅰ.イスラエルの民と聖であること

この手紙の4章に入り、「神に喜ばれる生活」という具体的な信仰生活がテーマとなっていきます。3節に「聖なる者となるため」と、7節には「聖なる生活をさせるためです」とあるように、神に喜ばれる生活とは「聖なる生活をする」ことと重なっています。
「聖」という文字は、英語では「ホーリー」、ヘブライ語では「コデッシュ」という言葉です。モーセは、この時、ミディアンの荒れ野で羊飼いとして生活していました。ある日、羊たちを追いかけて、ホレブの山に登ってきた時に、燃える柴を見つけました。いつまでも燃え尽きない不思議な光景を見ていると、神様がモーセに語りかけます。「あなたの立っている場所は聖なる土地だ、履物を脱ぎなさい」。ここで「聖」という言葉が使われます。モーセが生活していた荒れ野は人間の住む領域ですが、モーセが立っている場所は神の領域です。それを区別して「聖なる土地」と呼びました。「聖」という言葉の本来の意味は、「分離する」とか「切り離す」という意味があります。荒れ野のような世俗的なもの、神様の性質とはかけ離れたものと、切り離して聖なる神の領域の中にある。そのような概念を「聖」という言葉で表しています。「聖」という言葉は、創世記では1箇所(2章3節)にしか書かれていませんが、出エジプトの出来事を記した書の中で多く記されています。その意味は次のように考えられます。出エジプトの出来事から、神様はイスラエルの民を神の民としてくださいました。教会のような一つの信仰共同体として、十戒を授けて神の民となる契約をしてくださいました。そうして罪に溢れる世俗の土地カナンに入って行こうとしています。その世俗の世界に入って行っても、汚されることなく聖なる神の民として生きなさい、というメッセージが、イスラエルという共同体に与えられたのです。神の民として、聖なる神様との関係の中に入れられたのだから、あなた達も聖なる者となりなさいという教えです。それを象徴している御言葉がレビ記11章45節です。
「わたしは、あなたたちの神になるために、エジプトの国から、あなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」。
カナンという約束の地に行くと、偽りの神々を崇めたり、人間の作った偶像を信じる人々で溢れている、でもそれらに取り込まれるのではなくて、それらと自分達を切り離して、神の民となりなさい。それが聖なる生活だと言われるのです。

Ⅱ.性の営みについて

イスラエルの民が、行こうとしているカナンという土地には、性的に乱れた土地でもあったと言われています。同じように、それはパウロがこの手紙を書いた時代、教会を取り巻く環境の中にも、性的に乱れた文化がありましたし、現代社会も同じです。
テサロニケの信徒に向けて、パウロは聖なる生活について、具体的なこととして3節以降に「みだらな行いを避け…尊敬の念をもって妻と生活するように…異邦人のように情欲におぼれてはならない」と、性的に乱れた生活を戒めています。しかし、だからといって、男女の性的な関係そのものが、みだらな行いであったり、情欲におぼれている、ということではありません。もし誰かが「男女の性的な関係は、汚らわしくていやらしいものだ」と言ったら、それに真っ先に反対するのがクリスチャンだ、とCSルイス(神学者)が言いました。つまり、聖書に書かれていることは、男女の性的な関係は、いやらしいものではないというわけです。そもそも男女が結婚するということは、人間に与えられた神様からの特別な祝福です。夫婦が男と女に造られているというのは、お互いに補い合う関係にあることを意味していて、父母を離れて男女は一体となれる、それは特別な恵みです。神様は性的な喜びを、夫婦の祝福のために与えてくださいました、それは良いものです。神様の恵みであり祝福であるものを、いやらしいものにしているのは人間です。結婚して夫婦のために与えられたものを、結婚生活とは関係なく、好奇心や自分の楽しみにしていれば、汚らわしいものです。
今日の聖書箇所の4節には「おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって、妻と生活するように学ばねばなら」ないとあります。パウロは、他の手紙の中で、自分の体を自分の意のままにすることはできない。結婚したら、自分の体はもう自分だけのものではないとも言っています(1コリント7章4)。8節では、神様は「御自分の聖霊をあなたがたの内に与えて」くださっているとしています。夫婦互いの体には、聖霊が与えられているのですから、相手の体を自分の体のように労わって、手を添えたり、ハグをしたりするスキンシップをとることも大切なことです。神様から夫婦に与えられた恵みを、汚らわしいものにしないで、恵みを恵みとして受け取ること。これが夫婦に与えられた「聖なる生活」の秘訣といえるのです。

Ⅲ.聖なる生活

「聖なる生活」をすると聞くと、どこか、立派な生活をするかのように聞こえてきます。しかし、出エジプトの出来事では、イスラエルの民は、周りの民族とくらべて道徳的に立派だったわけではありません。特に優れたものを持っていたのでもありません。ただ神様の恵みによって、エジプトから救われて神の民とされたのです。それからエジプトを旅立ち、シナイ山で神の民となるために「聖なる生活」の戒めを与えられたのです。姦淫をしてはならない、偽りを言ってはいけない、あなたの父と母を敬いなさい、殺してはならない、盗んではならない、隣人のものを欲しがってはならない。そうした十戒の戒めを受け取り、その戒めに応えて生きるところに「聖なる生活」がありました。
それと同じ恵みが、イエス・キリストによって、私たちに与えられています。聖なる方はイエス・キリストです。聖なるものはイエス・キリストからきます。キリストの苦しみ、痛み、流された血、それらの御業がキリストの聖さです。「聖なる生活」は、自分の力で頑張って、道徳的に立派な生活をすることとは違います。私たちの聖なる生活の土台は、キリストの十字架の犠牲によって与えられたものです。その恵みを恵みとして受け取って、恵みに応えて生きることが、「聖なる生活」なのです。立派である必要はありません。這いつくばるように十字架を背負ったキリストを見上げて、自分らしくキリストに応えていく、そんな私たちを聖なる者としてくださいます。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」この言葉に応えていきたいと思うのです。

パウロが手紙に書いた「聖なる生活」の勧めは、イエス・キリストが、やがていつか、この地上に再び来られますが、その再臨の時までのあいだ、聖なる生活をして準備をしていなさい、という文脈の中で話されています。聖なる生活は、再臨の準備だと教えられています。
アメリカのボブ・ディランというミュージシャンがいます。ノーベル文学賞を受賞して話題になりましたが、彼はキリストの再臨について「アーユーレディ」という曲を作りました。(以下、歌詞から抜粋) 「Are You Ready」
「準備はできてるかい? イエスに会う準備はできてるかい? イエスに会う時、君を知り合いだと認めるだろうか?それとも君に「離れなさい」というのだろうか? 神の意思に委ねられてるかい?それとも、まだ自分がボスのように振舞ってるかい? 破壊がいっきにやってきた時、別れの言葉を言う間もない時、君はその時、天に行くか、地獄に行くかもう決めたのか? 自分で考えて行動しているかい? それとも群れに従っているだけかい? 主の日を迎える準備はできているかい? 僕はそう願うよ。」
この歌詞は、今日のパウロの手紙のメッセージと重なるのです。パウロはわたしたちに準備はできているか?と問うています。わたし達に、聖なる生活を求めて、再臨の時に備えるように勧めているのです。
教会ではこの数週間、葬儀が続きました。さまざまな悲しい別れがありました。しかし、天国に帰っていった人達は、やがて再臨の時にイエス・キリストと共に地上に来られます。天にある者と地上にある者との再会があります。やがて来る、再臨の時がいつになるのかは分かりません。しかし、再臨の時までの間、つまり今、この時、イエス様が来られ、裁きを受ける準備をするようにパウロは教えているのです。聖なる生活に生きる、それが再臨の時を迎えるまでの準備です。イエス様に会う準備はできていますか。テサロニケの人たち、あなた方は今のところ、それが上手くできています、それを続けてください。今日礼拝に集ったみなさん、準備はできていますか。それが、パウロのメッセージです。この一週間、聖なる生活を歩めますように。お祈りをしましょう。