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主日共同の礼拝説教

何をしてほしいのか

松本雅弘牧師
マタイ福音書20章29節―34節
2020年1月5日

Ⅰ.「何をしてほしいのか」と問われたら

今朝、私たちに与えられている聖書の箇所は、主イエスのエルサレム入城から始まる最後の一週間に先立つひとつのエピソード、二人の盲人の癒しです。「何をしてほしいのか」という主イエスの問いかけに対して、「目を開けていただきたいのです」と願い、主イエスは彼らの目を癒されました。すると彼らは主イエスに従う者、弟子になったのです。
実は、この出来事に先立ち、三年にわたり従ってきていた弟子たちにも、「何をしてほしいのか」と、同じ問いかけをしましたが、その願いは聞き入れられませんでした。ここに一つのコントラストがあります。

Ⅱ.まことの愛に生きるために目を開いてほしい

ガリラヤの故郷からずっと主イエスに従ってきた弟子たちです。主イエスのそば近くにいるように召され、直接、御言葉に養われ、様々な訓練を受けてきました。
その彼らが「何をしてほしいのか」と問われたときに、母親を通じてではありますが、主イエスの両どなりに座りたい、平たく言えば、出世したい、偉くなりたいのだと答えたのです。
イエスさまからしたら、「主よ、私たちの信仰の目を開いてください。あなたのお姿をよく見ることができる目をお与えください。あなたは何度も十字架にかかることをお語りになりました。その恐ろしいお言葉の意味が分かりません。いや、そう言われるあなたが理解できません。ですから、どうぞ分からせてください。あなたを見ることができるように私たちの目を開いていただきたいのです」。そう答えて欲しかったのではないかと思わされます。

Ⅲ.主に向かって叫ぶ二人の盲人

さて、主イエスの一行がエリコを出ていくときのことです。エリコはエルサレムの北東22キロほどのところに位置する町、旧約聖書の時代から名前のよく出てくる、交通の要所でした。
ヨルダン川の方からやって来ると、ここを通ってエルサレムへ上っていく最後の宿場町がこのエリコです。
たぶん主イエスは早朝、エリコを出発したことでしょう。ちょうど過ぎ越し祭の時期でもあり、大勢の巡礼者たちと一緒になって都を目指したことだと思います。
巡礼者たちは巡礼が済めば、再び自分たちの村や町に帰っていくのですが、この時の主イエスは違います。ガリラヤに戻るのではなく、あくまでもエルサレムで苦難を受けるためにやって来ているのです。
エルサレム入場の前日の晩をエリコで過ごし、そのエリコを発ってエルサレムに向かう。つまり受難週に向けての最後の旅の始まりの時だったのです。
そして福音書を書いたマタイは、この時すでにイエスを「主よ」と、それも三回も呼んだ人がいたことを伝えます。しかも、その内の二回は「主よ、ダビデの子よ」と呼ぶのです。
この後、ロバの子に乗ってエルサレム入城をなさったとき、群衆は熱狂し「ダビデの子にホサナ」と叫び、主イエスを迎えます。
でもこの時点ですでに、その群衆に先立って、盲人の彼ら二人が、「ダビデの子よ」と主に呼びかけているのです。
「ダビデの子」とは「イスラエルの王」という意味の呼びかけです。この時、彼らが声を挙げることがなければ、主イエスはそのまま通過なさったでしょう。実際、主イエスの思いはエルサレムに向けて一直線の状況だったわけですから。
ところが悲壮感の漂う主イエス、エルサレムに向かう主イエスの足に、彼らはストップをかけるのです。
主イエスは、本当に優しいお方です。その彼らに応えて足を止めてくださった。そして「何をしてほしいのか」と、静かに問われました。彼らは、「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えました。

Ⅳ.「主よ、目を開けていただきたいのです」

さて、福音書記者マタイは、主イエスが「目」のことをとても大切に考えていたことを伝えてきました。「山上の説教」では、「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが、濁っていれば、全身は暗い」と教え、あなたがたの目が暗く、見えなかったら、全身が暗い。全精神、全人格、全生涯が暗いのだと語られたのです。
「ぶどう園の労働者のたとえ」の終わりでも、「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と締めくくられました。「ねたむ」とは原文では「目が悪い」という意味で、神の気前のよさをねたましく思うのは目が悪いことの証拠、そうだとすれば、どうして神の愛の光の中に立つことができるのかと警告されています。
今日は、今年最初の主日共同の礼拝です。とても新鮮な思いで礼拝に集ってきたとともに、過ぎ去った年を振り返る思いも持たされています。そうしたとき、幾度、自分の目の悪さ、暗さ、それが具体的にはねたみを抱き、人を斜めに見てしまう、そうした私の中にある現実に気づかされたことか。ある人の言葉を使えば、私の目は、何と「癖が悪い」ことかと残念に思う。それに気づくのは聖霊の働きです。聖霊によって気づかされ、そうした自らの目の癖の悪さを悲しむのですが、でも今日の御言葉を通して私たちがすべきことは、ただ悲しむだけではなく、「主よ、私を憐れんでください。あなた以外に、この目を開けてくださるお方はいないのです」と、主に祈る必要があるということでしょう。二人の盲人のように、通り過ぎる主イエスに向かい、「主よ、待ってください、この私に恵みを与えないで通り過ぎていかないでください」と祈るように導かれている。いや祈らずにはおれないのではないでしょうか。
私たちは、昨年のお正月をつい先日のように感じるものです。詩篇九〇編の詩人は、「人生はため息のようだ。あっという間に過ぎ去るものである」と、「私たちの人生のはかなさ」をしみじみとうたっています。でも「人生のはかなさ」を憂い、いとおしむような日本的な感覚に共感を求めるのではなく、だからこそ「生涯の日を正しく数えるように教えてください」と主なる神さまに向かって叫ぶ。「どうぞ、知恵ある心を得ることができますように」と祈るのです。この叫び、この祈りもまさに、「主よ、目を開けていただきたいのです」との二人の盲人の祈りと響き合うのではないでしょうか。
私たちが、すでに、いま、ここにおられる主に出会うとき、そのお方は必ず「何をしてほしいのか」と問うてくださる。結果的にはとんちんかんな願いをした、あのゼベダイの子たちの母に向かってもそうでした。そして二人の盲人に対しても同じです。この二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」とはっきり答えている。私たちも、今も生きて働いておられる主の力強い御手の動き、気前よく、慈しみにあふれる主の御業をしかと目の当たりにできる目を、この年、いや今、必要としているのではないだろうか。困難な中、様々な問題に囲まれ、主がおられるのだろうかと疑ってしまうような現実の中で、実に生きて働いておられる主なる神をしっかりと見ていくことができるように、です。
私は、創世記に出てくるヨセフのことを思い出しました。エジプトに売られ、投獄され、お世話してあげたはずの給仕役の長にすっかり忘れられてしまった。そのため、さらに二年間も牢獄での生活は続きました。ヨセフにしてみれば、何が何だか分からない。絨毯の裏側から模様を眺めている状況です。しかし、それでもなおヨセフは、「主よ、目を開けてください。あなたのお働きを目の当たりにする目、あなたの視点で物事を見る目をお与えください」と祈り続けたのではないだろうか。そして最善のタイミングで絨毯の表面の絵柄を見せていただく恵みに与ったのです。そしてその絵柄を紡ぎ出すために、今までの一つひとつの出来事が無駄ではなく、万事が益とされることを改めて知らされていった。その恵みに、私たちの信仰の先輩ヨセフは与ることができたのです。
マタイ福音書は、目を開けてもらった盲人は二人だったと伝えています。それまで互いに助け合い、困難や悲しみに耐えてきた。周囲の人々に蔑まれたりしながらも同じ境遇を知っている者同士として支え合ってやって来た。そうした二人が共に、同時に、目を開いていただいたのです。どんなに大きな喜びだったことでしょう!
その二人が再び一緒になって主イエスの後について行く。群衆に混じりながら、でもその中の誰よりも大きな、深い喜びに溢れて、主に従っていったのです。教会の交わり、クリスチャンの交わりはこういうものなのではないだろうか。一人ではない。共に主を見上げる。いただいた喜びを独り占めするのでもありません。共に喜び合う。「二人でも三人でもわたしの名によって集うところにわたしも居る」と約束された、愛の主イエスが、私たちのただ中におられるからです。お祈りします。