松本雅弘牧師
ヨエル書3章1―5節、マタイによる福音書7章24―27節
2020年1月12日
Ⅰ.「何よりも大切な家族」を支えてきた「経済」という土台の崩壊
少し前のデータですが、「精神的な充足や心のよりどころの模索」という調査で「あなたにとって一番大切なものは何ですか」と尋ねたところ、「家族」と答えた人が断トツに多かったそうです。その割合は46パーセントで、およそ2人に1人がそう答えています。
つまり生命、健康、財産よりも、家族が大切だと考える人が多い。この点について社会学者の山田昌弘さんは著書『迷走する家族』で、日本人は戦後、国家主義的な「クニ」とか、伝統的な「ムラ」に代わって、家族への所属意識が高まったからだと分析していました。
山田さんの主張は続きます。日本社会は90年代以降のバブル崩壊後、何よりも大切である家族や家庭生活を支えてきた、経済という基盤が崩壊しつつある。言い換えれば、経済はもはや私たちを本当の意味で支える基盤とはなり得なくなって来ているというのです。つまり、何よりも大切と考える家族を支える「経済という土台が」揺らぎ始めてきた。山田さんはこの状態を「迷走」と表現していました。
Ⅱ.経済に代わる「確かな土台」とは?
では経済に代わる確かな土台って何でしょうか? イエスさまは、「山上の説教」の結論のところで、「家と土台」の譬え話を御語りになりました。ここでイエスさまは、私たちの日々の歩みを、「家」に譬えておられます。あるいはこの「家」を私たちの家庭生活、家族との生活と理解しても間違いではないように思います。
イエスさまが言われるには、どの家族にも例外なく雨が降ったり、川が溢れ、風が吹くような逆境の時がある。でも結果は、片方は大いにダメージを受けるが、もう片方は守られる。その違いは「土台」にあるとおっしゃるのです。
しばらく前、東後勝明さんの証し、『ありのままを生きる』を読みました。東後さんは自らこの大きな倒れ方を経験されたのです。皆さんの中には「東後勝明」と聞かれ、「覚えのある名前だ」と思われる方もあるかもしれません。「東後勝明」と言えば、私が学生の頃、NHKのラジオ「英語会話」の人気講師でした。東後さんは50代で人生の危機にぶち当たります。NHKのラジオ「英語会話」も大ブレークし大活躍。色々なところに講演に呼ばれ、とても忙しい日々を過ごしていましたが、突然、お子さんが不登校になります。そして奥様がくも膜下出血で倒れ、ご自身も原因不明の内臓出血で緊急入院。それらを契機に自分の生き方を考えさせられることが起こったのです。つまり今までの自分や家族が「よって立っていた土台」というものを考え直す機会をいただいたのです。
それまでは、「大切な家族を支えているのは、他でもない自分の稼ぎである」と考えていました。「自分が出世すること、自分が偉くなること、それは結果的に、家族の生活にとってプラスになるのだ。そのために、多少、家族にしわ寄せが来てもしょうがない。自分の苦労に比べれば、大したことはない」と考え一生懸命やってこられました。ところが、彼が考えていた土台は本当の土台ではなく、彼の人生という立派な建物が、ものの見事に倒れてしまったわけです。しかも倒れ方はひどいものでした。
しかし本当に幸いなことですが、神さまの憐れみによって彼はイエスさまと出会い、洗礼を受けてクリスチャンになりました。聖書の言葉を人生の土台とし、神さまとの関係の中で、自らの人生の改築を始めていかれたのです。その結果、少しずつ東後さん自身が変えられていきました。今まで家族はもちろん、猫までもが彼のそばに寄りつかなかったのですが、クリスチャンになった後、その猫が彼の膝に飛び乗ってきたそうです。猫に認められた東後さんの姿を見て、初めて家族も彼が変えられてきたことを受け入れ始めたそうです。
実は、東後さんは高校2年生の時に、尊敬していたお父さんをガンで亡くされたのです。お父さんは、息を引き取る直前に、息子さんの東後さんを枕元に呼んで、絞り出すような声で言ったそうです。「勝明、お前、出世しろよ!」とっさに、「出世する」ということがどういうことか分からずに、「出世するって、どういうこと? 偉くなること?お金を儲けること? 有名になること? 地位を得ること?」と、矢継ぎ早に訊ねたそうです。でもお父さんはその問いに答えず、息を引き取ったそうです。その時から心の中に「出世するために、とにかく頑張らなくては」、「なんとかしなくては」という思いが支配し始め、何をするにも、「このままではいけない」と自分を駆り立てるようになり、なりふりかまわず、出世街道をまっしぐらに進んで来た、と回想しておられました。
そんなある時、講演会の後、学生が手を挙げて、「先生のそのエネルギーの元は何ですか?」と質問したそうです。するとすかさず「怒りだ」と答えました。さらに質問が続き「何に対する怒りですか?」。東後さんは天を仰いで答えに窮してしまい、「うーん、すべてのもの・・・かな?」と答えたそうです。
本の中で、「その正体の知れない怒りは、ある種のマイナスエネルギーであり、そのマイナスエネルギーによってこころの歯車は狂い始めていた」と述懐していました。
NHK講師、大学教授、様々な華々しい活動を東後さんの家族は支え切れなくなってしまった。そして、その家族を支えてきたと思っていた経済的なものも、実は本当の意味で、家族生活を支えるものではなかったことに気づかされた。そして深い悔い改めと共に、神さまを信じて、新しい土台の上に、残りの人生を立て直して行こうと決意されたそうです。
「土台」って何でしょうか? それは価値観のことです。何を大事にするか。何を選び、何を捨てるかという選択の基準です。
東後さんは、人生の節目々々で、経済を土台として、出世や自らの実績を幸せの土台として考えてきたのですが、実は、それが間違っていた。しかもその土台自体が、東後さんの生き方や大切な家族の生活というものを支え切れずに倒れてしまい、それもひどい倒れ方を経験されたのです。
Ⅲ.私たちの中にある罪の現実
大分前の話ですが、アメリカでこんなことがありました。ある男性が桟橋を歩いている時に突然にロープに躓き、下の水に落ちてしまったそうです。浮かび上がった時、助けを求めて叫んだのですが、再び水の中に沈んでいってしまいました。その人は泳ぐことも、再び浮かび上がってくることもありませんでした。彼の友人たちがかすかな叫びを遠くで聞いたのですが、遠すぎてとても助けに行くこともできませんでした。でも、僅か数メートルのところにデッキチェアがあり、日光浴をしていた若者がいたのです。その若者は無関心に眺めているだけ。「助けてくれ! 泳げない!」と叫び、助けを求めても、若者は見ていただけでした。
後になり遺族がこの若者を訴えたのですが結果は敗訴でした。確かに人をあやめたり危害を加えていなければ、法律的には責任を問われることはありませんが、神を知る者として、神さまのかたちに造られた人間としても道に外れた行為です。私たちが家族を大切にしたいと思う時に、この罪の問題を神さまに解決していただかなければ難しいのです。では、どうしたらよいでしょうか。
Ⅳ.若者が幻を見るために
今日のヨエル書3章1節をもう一度、読んでみたいと思います。聖霊が降ると若者が夢を抱き、希望を持つことができるというのです。
ただこの約束が現実になるための1つの条件があります。主イエスも、「わたしを離れてはあなたがたは何もできないから」(ヨハネ15:5)と言われます。
ですから、私たちがすべきことは、聖霊が生き生き働かれるための環境を整えることです。すなわちぶどうの木であるキリストにつながることです。使徒パウロも、ローマの信徒への手紙7章、8章で次のように語っています。「わたしは自分の望む善を行わず、望まない悪を行っている。・・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と、罪の力の現実の前に叫びました。しかし、その後があるのです。
パウロは続けています。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。・・・従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」と。
今、社会の人々が感じているように、家族は本当に大切なものです。私たちはそうした方々に対して、経済に代わるより確かな土台である、「聖書の価値観」を証しする責任を託されています。と同時に、その価値観に生きる私たちクリスチャンが、御言葉と祈りの生活を通して、ぶどうの木であるキリストにしっかりと繋がり、内側からも聖霊によって注がれる新しい命に生かされていくように。今日、成人を迎える方々も、ぜひ、このことを心に留めていただきたいと思うのです。お祈りします。