松本雅弘牧師
イザヤ書52章1節-10節、マタイによる福音書21章1節―11節
2020年2月2日
Ⅰ.はじめに―ヘロデとイエス
今日の聖書箇所を見ますと、「エルサレムに迎えられる」と小見出しがついています。この日から受難週が始まり、数日後に、都エルサレムにおいて受難の出来事が起こり、その城外で、主イエスは十字架にかかって死なれます。
ここで主イエスは2人の弟子にろばを用意させました。主イエスは、そのろばに乗ってエルサレムに入城されたのです。
Ⅱ.王として迎えられる主イエス
ところで、マタイ福音書は主イエスを王として示していると言われます。私たちは数年かけてマタイ福音書を読み進めてまいりました。
これまで必ずしもおおっぴらに、ご自身が王であるとおっしゃったわけではありません。しかし注意深く読むとき、マタイは最初からイエスを王として迎えることが大切だと理解していたことが分かるように思います。
その証拠に、福音書の1章1節、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉です。そして続く2節以下に出てくる系図は「王家の系図」です。マタイは冒頭から、イエスがイスラエルの王ダビデの子孫で、神の民、ユダヤの人々、いやそれどころではない、全世界の人々に真の救いをもたらす真の王なるお方であると宣言するのです。そして続く2章には、占星術の博士たちがやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれなった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と語ります。「あなた方の王をユダヤ人に属していない私たちも拝みたい。その方はどこにお生まれになったのでしょうか」と訊いているのです。そしてクリスマスの一連の出来事以降、王としてのお姿がはっきり現れてくるのが今日の箇所です。ゼカリヤ書の預言の成就としての、柔和さの象徴であるろばに乗ってエルサレムに入城された出来事でした。
Ⅲ.王とは
この時期になると毎年、4年前の聖地旅行を思い出します。まず案内されたのは主イエスと同時代に生きたヘロデ王が残した数々の遺跡でした。これだけのものを、それも2千年も前の昔に作ることが出来たと感心させられます。
ヘロデ大王は優れた都市計画者として知られています。そして何と言ってもヘロデの名を偉大なものとしたのは、「ヘロデ神殿」と呼ばれる第三神殿の建設です。それはソロモン神殿を超える規模で、ローマ帝国はもとより広く地中海世界において評判となりユダヤ教徒でない者までもが神殿のあるエルサレムを訪れるようになったそうです。何でこんな話をしたかと言いますと、普通、王さまという存在はそのような存在でしょう。ろばとは真逆の世界です。
安野光雅という絵本作家がおられます。その安野さんの作品に、『おおきなもののすきなおうさま』という絵本がありますが、安野さんに言わせますと、王さまとは、大きな物が好きなのです。それが王さまです。
最初の頁は次のような語りで始まります。「昔、あるところに、大きな物の好きな王さまがいらっしゃいました。王さまは、何しろ大きな物が好きでしたから、屋根よりも高いベッドで、お目覚めになると、プールのような洗面器で顔を洗い、庭のような広いタオルで顔を拭いて、やっと一日が始まるのでした」。絵本には梯子をかけなければ上れないベッド。自分の体よりも大きな歯ブラシ。一生かかっても食べられないほど巨大なチョコレート。王さまとは「大きなものが好きな人種だ」というのです。
まさにヘロデもそうでした。でもこれは他人事ではありません。私たちの中にも「小さなヘロデ」が潜んでいるのではないでしょうか。山上の説教で主イエスはお語りになりました。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな。また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。…空の鳥をよく見なさい。…野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。」
慈しみ深い神さまが、今この時も支配されている、守ってくださるから大丈夫だ、というのです。ところが、その王なる神さまの御手の働きを見ることが出来ない。そして、どうにかしなくちゃ、と思い煩う。人間関係においても、先方の出方までコントロールしたくなり、それが自分の意にそぐわないと、急に苛立ち、腹が立つ。こうした姿はまさに、私が、神さまに代わって王のように、と勘違いしていることの証拠ですと、主イエスはおっしゃるのです。神さまのご支配を認めない。神さまは慈しみ深いお方であり、私たちの最善を常に考えておられる。その私たちのために万事を相働かせる力と思いを持っておられるお方であることを信じられず、ゆだねられないので、私たちは思い煩うのです。
私たちが思い悩むことの原因は、実は、私自身がいつの間にか王さまになっていることの証拠なのだと聖書は教えているのです。
Ⅳ.いのちを与える真の王
この時、主イエスもここで王になっておられます。元々、真の王なるお方でしたから。ご自分がダビデの子孫であって、ユダヤの民が待望していた新しい王なのだということを、敢えてここで誇示しておられるのです。でも、その誇示の仕方はろばなのです。柔和で決して相手を威圧し黙らせようとするのではなく、平和をもたらすのです。ですから、私たちがすべきことは、主イエスを王なるお方として受け入れる。その神さまのご支配、神の国に生きる。そしてその時に、私たちは本当の自由をいただくことができるのです。
真理はあなた方を自由にする。王なる神さまの慈しみ深いご支配を認めて初めて、私たちはそのお方にあって、恵みと平安のうちに憩うことが出来るからです。
ヘロデ大王は命を奪う王でした。メシヤが生まれたとの情報を耳にした途端に不安になり、「そのメシヤとやらを、赤ん坊の内に殺してしまおう」と言って、すぐさま命令を出して殺したのがヘロデです。大きなことが大好きで、自らの大きさを保つために、どれだけの人々が犠牲になっていったことかと思います。先ほどの絵本に出てくる王さまはそうした残虐さはなかったにしても、でも謙遜さ、柔和さはありませんでした。真の王を知り、自分の限界に気づく必要があるのです。絵本の最後の場面は、こんな物語が出てきます。王さまが大きな植木鉢を作るのです。梯子をかけてのぞき込まないと中が見えないほどの巨大な広さの植木鉢です。そしてそのど真ん中にチューリップの球根を一つ植える。そして春が来るのを待ちました。植木鉢がこんなに大きいのだからどんなに大きなチューリップが咲くだろうかと楽しみにしながら待ちました。ところが植木鉢のど真ん中に咲いたのは普通の大きさの可愛いチューリップでした。
作者は「あとがき」で、「目もくらむような思いで、大きな物を使う王の世界を描きながら、しかし、最後に問うたのは、どんなに大きな物を作ることが出来ても、いのちのあるチューリップは作れるかということでした」と書いていました。
確かに王さまという存在は、大きな物が大好きでしょう。でも真の王である主イエスは、それとは正反対に小さなものも好きな王になってくださったのです。
ある牧師がこんなことを語っていました。「主イエスは、小さい、でも掛け替えのない、いのちを大切にする王となってくださった。しかも、この王は、他のどんな王さまにも不可能な、いのちを造るということをするために、王になってくださった」と。
主イエスは、見上げるような戦車や馬に乗ってではなくて、乗っても足が地面に付いているかもしれないようなろばにまたがって、エルサレムに入城されました。それは、私たちを殺さないで、生かすためでした。私たち一人ひとりのいのちを生かすためにそうなさったのです。私たちは、今こそ、主イエスがどのようにして平和をもたらされたのかを聴かなければならなりません。主イエスはこのようにしてエルサレムに入城され、この5日後に十字架の上で死なれたのです。
パウロは、そのことについて、次のように語りました。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊……されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:14-16)
主イエスは、ろばに乗って入城し、平和の礎となるために十字架にかかられました。私たちは、そのことを感謝しつつ、主イエスの後に従う者でありたいと願います。お祈りします。