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主日共同の礼拝説教

“変わることのないもの”と“変わるべきもの”を識別する知恵

ヨハネによる福音書15章1―10節
松本雅弘牧師
2020年2月9日

Ⅰ.はじめに

教会に伝わる有名な祈りがあります。「変わることのないものを守る力と/変わるべきものを変える勇気と/この二つのものを識別する知恵をお与え下さい。」
一般に「ニーバーの祈り」と呼ばれているものです。まさに日々直面する現実の中で、私たちの心の中にある願いや不安をそのまま言葉にしてくれた祈りのように思います。
変わることのない大切なことを大切にしていく力、そして変えてよいものを思い切って変えようとする勇気、そして、変わることのないものと、変わるべきものを区別する知恵、これは生きていくうえで本当に大切な祈りの言葉、また生きる姿勢なのではないかと思います。

Ⅱ.「わたしはまことのぶどうの木」

本日の聖書の言葉は、主イエスの有名な言葉です。ここで「わたしにつながっていなさい」、と言われます。しかもわざわざ「まことのぶどうの木」とおっしゃっています。当時は偽りの木があったからでしょう。知り合いの先生が、こんな話をしておられました。
昔々、あるところに、貧しい人々が住む村がありました。村人たちはいつも喧嘩をしていましたので、誰もが皆不幸だったそうです。
そこに、ある「旅のお坊さん」がやってきたのです。さっそく村人は、お坊さんに自分たちがあまりにも不幸なので「お祈りできるものをください」、とお願いしたそうです。するとお坊さんは2つのお地蔵さんを作り、片方は村の東の端に、片方は西の端に置き、東の地蔵を「聞かぬ地蔵」、西の地蔵を「聞く地蔵」と名付けて、「両方のお地蔵さんに祈れば幸せになれる」とだけ伝えて村を後にしたそうです。
村人たちは大喜びで、最初、東の地蔵のところに行って祈りますが、何も願いを聞いてもらえないということで、西の地蔵のところに行き祈ります。するとどんな祈りも応えられました。
その結果、次第に東の地蔵ではなく西の地蔵ばかりに「病気を治してください/食べ物をください/商売を繁盛させてください」と祈りに行ったのです。するとあっと言う間に村人たち皆豊かになりました。しかし不思議なことに願ったものを手に入れたはずなのに、気持ちが晴れないのです。
お隣さんの方が自分よりも良い物をいっぱい手に入れているのではないかと思い始めたからです。
そこで再び西の地蔵のところに行き、「近所の人に不幸を与えてください/病気にしてやってください」と不幸を祈りました。その結果、元のように喧嘩の絶えない貧しく不幸な村になってしまったのだそうです。 私はこの話を聴いて大切なことを教えていると思いました。物やお金を手に入れて幸せだと思っても、それは束の間、すぐに心にある欲望が膨らむ。結局、私自身の内面に変化が起こらなければ、私を取り巻く状況がどのように変化したとしても、本当の幸せをつかむことは出来ないのではないか、と感じるのです。

Ⅲ.つながること

聖書に戻りましょう。主イエスは私たちを枝にたとえています。
枝である私たちに向かい、「まことのぶどうの木であるわたしにつながっていなさい」と呼びかけられたのです。確かに最初はどんなに元気のない貧弱な枝であっても、しっかりと木につながっていれば、必ず水分や栄養が幹を伝って枝に流れ、枝は元気になる。春が来れば花が咲き、必ず実をならすはずです。
ある時、イエスさまはおっしゃいました。「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚す」と(マタイ15:11)。その意味が分からずにいた弟子が、「具体的に説明してください」と願うと、こうおっしゃいました。
「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」(16-20)。
私たちを汚すのは、外側からではなく、私たちの内側にある様々な思いが、私たちを内側から汚す。ダメにするというのです。
ですから、そうしたことをお考えになって、内側に、確かな栄養を、しっかりと得ることが大事だ、と言っておられるのです。
それが、今日の聖書の言葉、まことのぶどうの木であるイエスさまにしっかりとつながり、まことのぶどうの木であるイエスさまから直接、いのちをいただき、内側から綺麗にしていただくことが大切なのだ、ということです。
では、ぶどうの木である主イエスにつながるとはどういうことでしょう?
7節と8節をご覧ください。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
つまり、「主イエスの言葉、聖書の言葉が常に心の中にある状態を保つ」ということ、すなわち、聖書の言葉によって養われる環境に身を置き続ける、ということです。

Ⅳ.神さまの口から出る言葉によって生きる人間

イエスさまは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と教えてくださいました。私たち体のために栄養豊かな食物が必要なように、どうしても心に栄養が必要です。
いかがでしょう。健康上問題が無くても、心に悩みや不安を抱えていたら、体力があり能力があっても、それを発揮することができません。逆に、暗い思いで1日を始めたとしても、家族や友人のちょっとした言葉で息を吹き返すこともあるのです。
私たちの体に栄養が必要なように、心にも栄養が必要である。それが主イエスの言葉、聖書の言葉なのです。
そして、その聖書の言葉にとどまる時に、ちょうど、枝がぶどうの木につながって実を結ぶように、必ず実を結ぶ。つまり私たちの内側から少しずつ変化が起こるというのです。
ところで、先ほどお話ししました昔話には続きがあるのです。
元のように喧嘩の絶えない貧しく不幸な村人たちのところに、再びお坊さんがやって来たそうです。そして、「どうしたのか。どういう風に祈っていたのか。東の聞かぬ地蔵の方にも、西の聞く地蔵の方にも、両方のお地蔵さんにちゃんと祈ったか」と訊ねたそうです。
聞いた村人たちはハッとしました。東の地蔵さんには全く祈っていないことを知らされたからです。
そこで村人たちはしぶしぶ東のお地蔵さんのところに行き始めました。聞かない地蔵の前で、色々と心の中にある思いを訴えたそうです。すると不思議と心がスッキリとして穏やかな心になる。
そして、何か特別に必要な時には今度、西の聞く地蔵の方に行って、願い事を叶えてもらう。そのようにしていく中で、以前に比べお金や物には恵まれなかったのですが、不思議と彼らは幸せになっていった、というのです。
実は、東のお地蔵さん、聞かない地蔵は、まさにそのお地蔵さんの前で、本当に求めるべきものは何なのか、何を大切にして行ったらよいのか、自分を本当の意味で支えてくれる基盤って何なのかを、村人たちは考えさせられ、自己吟味をさせられたのではないかと思うのです。私は、このお話を聴いた時に、今日の御言葉を思い出しました。
まことのぶどうの木であるイエスさまにつながるということは、主イエスの言葉という、私たちの心の姿を映し出す鏡の前に自分自身が立つことです。そして私たちが求めているもの、願っているものが、私や家族にとって、あるいは周囲の人々にとって本当に大切なものなのかどうか、本当に賢い選択なのかどうかを吟味させられ、本当に求めるべきものを求める私へと造り変えてくださる。それが、力の御言葉、聖書なのです。
イエスさまこそぶどうの木であり、そして私たちは、そのイエスさまにつながりなさいと招かれているぶどうの枝です。
聖書の言葉を心の糧とすることこそ、幸せへの道であり、私たちの生活に確かな土台や基盤を与えることなのです。
変えてはならないもの、これを選び取っていきたいと願います。お祈りします。