和田一郎副牧師
イザヤ書7章13-14節、テサロニケ一5章1-11節
2020年2月23日
Ⅰ.「わたしは必ず戻る」
となり町の相模原には、宇宙科学研究所(JAXA)があります。惑星探査機「はやぶさ」が地球に戻って来た時は感動しました。地球に帰って来る時に、故障して交信が途絶えてしまいましたが知恵と技術の結集があって戻ってきました。その探査機にちなんで相模原市の特別レスキュー隊は「スーパーレスキューはやぶさ」というそうです。レスキュー隊員が危険な任務を全うして、1人でも多くの人を助けて「必ず戻る」という願いが込められているそうです。助けるだけではなくて、必ず戻って来ることが任務ということです。
テサロニケの信徒への手紙一 4章、5章の中で、パウロが強調していることは、「イエス・キリストは必ず戻って来る」ということです。復活したイエス様が、弟子達が見ている前で天に上げられて、雲の彼方に離れ去って行かれた時、天使が言ったのです。「天に上げられたイエスは・・・あなたがたが、今見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1章9-11)また、戻って来ると言われました。
イエス様がもう一度来られることを「再臨」と言います。ちなみに再臨に対して最初に来られたことは「初臨」と言います。家畜小屋でお生まれになった、クリスマスの出来事は、最初にイエス様が来られた時なので「初臨」です。そしてもう一度、来られる時が「再臨」です。私たちは今、「初臨」と「再臨」の間に生きています。
ところが、「初臨」の話しはよく聞くので分かるが、「再臨」と言われてもピンとこない、「本当に来るのだろうか」と漠然としている人も多いのではないでしょうか。しかし、パウロはこの手紙の中で、キリストは「必ず戻って来る」と言っています。例えば「妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません」と、妊婦が出産する時に、苦しみが当たり前にやって来るように、必ずキリストは戻って来ると言うのです。今は無痛分娩などもありますが、それでも出産までには、いろいろと大変な苦しみがあります。それと同じようにキリストの再臨は必ず来る、確実なものだというのです。
では、確実ならば再臨はいつ来るのですか、と聞きたくなります。しかし、パウロは「その時とその時期について、あなたがたには書き記す必要はない」と、ちょっと意地悪な答え方をしています。ですが、「いつ」という質問に答える必要はない。なぜなら、4節にあるように、泥棒は夜、人々が安心して寝静まっている時を狙ってやって来ます。大丈夫だろうと高をくくっている、そんな時に来るのです。キリストの再臨の日も、そのようにして来からです。イエスの再臨などありはしない、あるとしてもずっと先のことで自分には関係ないと思っていると、そこに、突然、イエス様が来られるのです。パウロは、あなたがたは、イエス様がそのように来られることを既に私から聞いて知っている、そのことさえ知っていればそれで十分なのだ、それ以上のことは、知ることが許されていないし、知る必要もないのだとパウロは教えています。
初臨と再臨の間の時代に私たちは生きていますから、再臨はこれからです。初臨と再臨を意識することがクリスチャン生活の大事なポイントです。
Ⅱ.その時
再臨の時には、何が起こるのでしょうか。今日の聖書箇所の前には、再臨の出来事が書かれていますが、4章16節からの言葉によれば、再臨の時、「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、イエス・キリストが天から下って来られる」とあります。それに対して、まず先に天に召されてしまった人々が復活します。その次に生きている人々が引き上げられて、天に召された人々と一緒に、イエス・キリストに出会うことになります。つまり、生きていようが、死んでいようがキリストを信じる者は、やがて一つにされるのです。
Ⅲ.「目を覚ましていなさい」
4節以降は、再臨の時までの、クリスチャンの生き方についてです。ここでパウロは、わたしたちは暗闇の中に生きているのではありません。わたしたちは光の子、昼の子、昼に属している者なのだと言うのです。暗闇や夜に属する人たちは、イエス・キリストを救い主として信じていない人たちです。彼らはキリストの復活も再臨も信じていないわけですから、人間はすべて死んだらおしまい、人生の終わりのあとは闇のようなものだとみています。しかし、キリスト者は昼の光に属する、光の子です。かつて、羊飼いたちが、野宿をして闇の中を夜通しの羊の番をするという、辛い仕事をしていました。その時、大きな光が周りを照らし、光の源の言葉によって「さあベツレヘムへ行こう。主を見に行こう」と励まし合って力を得たように、キリストの救いに与った光の子は、希望の中で生きる力を与えられています。
ですからパウロは、8節で「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」と言うのです。つまり、信仰、希望、愛、この三つをいつも身につけた信仰生活を送りなさい。それが、キリストの再臨の時を待つに相応しい、生き方なのだと教えています。
これはパウロの思い付きのようなものではありません。イエス様も、マルコによる福音書13章で、弟子達に向かって、再臨の時までの信仰生活について教えました。
ある所に、主人と僕(しもべ)たちが住んでいました。主人の家の生活は、愛と恵みに満ちた生活でした。僕たちが恵み深い主人を信頼していたからです。ある日、主人は旅に出る事になりました。主人は、留守を守る僕たち一人一人に仕事を与えました。一人一人の持っている賜物に合わせて仕事と責任を持たせて、入り口で門番をする者には、「いつも目を覚まして、しっかり門番の務めを守りなさい」と言いました。なぜなら、周りには悪い者が沢山いるからです。主人が留守にしている間も、愛に満ちた生活を守るために、それぞれ役割と仕事を守っていなさい。次に主人が戻って来た時、これまでとはくらべものにならないくらい、さらに豊かな生活になります。それが永遠に続くのです。でも主人が戻って来た時に、あなた達が与えられた仕事と責任を果たしていなかったら、主人はがっかりするでしょう。だから、いつ主人が戻って来ても、悲しませることがないように、与えられた役割を果たすように留守番をしていなさい。
イエス様は、そのように再臨までの生活の在り方を教えてくださいました。旅に出た主人と同じように、イエス様の姿は、今は見えませんが必ず戻って来られます。
Ⅳ.主とともに生きるようになるため
テサロニケの手紙、10節にもどります。
「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」とあります。「目覚めていても眠っていても」と言うのは、生きている者も、死んでしまった者も、という意味です。生きていようが、死んでしまっていようが、イエス様が死なれたのは「イエス様と共に生きるようになるため」です。
私たちの救い主であるイエス様が、神々しく遠くから、見守ってくださるだけではなくて、身近なところで生きる方として、私たち人間の社会、職場、家庭や私たちの心の中に働いておられます。今日お読みした、イザヤ書の預言の言葉にも書かれています。
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」
イザヤ書7章14節
インマヌエルというのは「神が共にいてくださる」という意味です。イエス・キリストは、そういうお方として地上に来られたと、言いあらわしています。
インマヌエルと呼ばれるイエス様が地上に来られたことは、神様が私達と近くにいて下さる証拠です。神様を見た人はいません。しかし、神の独り子、イエス・キリストの存在そのものが「神が共にいてくださる」という預言を成就された証しです。
イエス様は、遥か遠くにいるお方ではなく、私たちの内にすみ、生きていてくださったのです。それは、私達人間の苦しみや悩みを理解して下さる方となるためです。その意味において、イエス・キリストはインマヌエルです。
イエス・キリストは、必ず戻って来られることを心に留めて、それまでのあいだ、それぞれの持ち場持ち場で、与えられた役割を果たしていきましょう。お祈りをいたします。