2020年3月1日
松本雅弘牧師
申命記10章12節~11章1節/マタイによる福音書21章18~22節
Ⅰ.実のないいちじくの木
新型コロナウイルスの脅威の中、私たちは不安のうちに今日、主の御前に集ってまいりました。本日は3月の第一主日で聖餐式が行われる礼拝です。しかし私たちの側の出来ることを徹底するということで、今日は聖餐式の取りやめを決定しました。今日は聖餐式にあずかれることを期待してこられた、それに向けて1週間備えてこられた兄弟姉妹に対して、ほんとうに申し訳なく思います。そのような意味で、本日は、主イエスの十字架での贖いを指し示すパンとぶどう液をいただきませんが、主イエスご自身が、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って調べているが、聖書はわたしについて証しをするものだ」とおっしゃった、そのキリストを指し示す聖書の言葉を通して、主ご自身が、ご自身を私たちの目の前にはっきりと、そして鮮やかに表してくださるように、祈りつつ、今日の御言葉に心を向けていきたいと思います。そのようにして、今朝の御言葉を読み始めますと、とても難しい箇所です。愛に満ちておられる主イエスの御姿が見えないからです。代わりに何か理不尽で、失望させられるような主の御姿がここにあるからです。R・T・フランスの註解書には「この話自体に多くの価値を見いだせる者はほとんどおらず、実際、多くの者が、その破壊性と、つまらない失念深さにさえ見えるものに当惑してきた」とありました。その問題となっている箇所が18、19節です。「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、『今から後いつまでも、お前には実がならないように』と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった」。同じ出来事を記すマルコ福音書には、「いちじくの季節ではなかったからである」と書かれています。躓きを覚える主イエスの言動です。
この場面、過越祭の最中です。都エルサレムは巡礼の人々でごったがえしていました。神殿の境内に入ると何かに取りつかれたかのように売り買いをしていた人々を追い出すわ、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返すわ、一種異様な行動をとられたのです。主イエスの瞳に大勢の人々で賑わう神殿、いや都エルサレムを埋め尽くす神の民であるイスラエルの人々の姿はどう映っていたのでしょう。葉ばかりで実をならせないいちじくの木と同じような姿に映っていたのではないでしょうか。神の民と呼ばれるだけの内実の伴っていないイスラエルの人々の姿が主の眼前に現れていたのではないでしょうか。
Ⅱ.主イエスによって演じられたたとえ話
ただ、そうは言っても主イエスはなぜ、ここまでラディカルな行動、木を枯らせてしまうという異常なまでの行動をおとりになったのでしょう。静まって思いめぐらすときに、主イエスの優しいお顔は思い浮かびません。ある種の切迫感に満ちたお顔なのです。3年の公生涯を歩んでこられました。弟子たちを育て宣教に心血注いで来られたのです。でも「神の民」と呼ばれるイスラエルの民は福音を受け入れない。そして数日にしたら十字架が待っているのです。「今、主イエスの地上の生涯の清算の時が来た」とある牧師は語っていました。
この出来事は、主イエスによって「演じられたたとえ話」なのだ、ある学者が語っていることを知りました。目を覚まして欲しかった。自分たちの足元に気づいて欲しい。公生涯の8割の時間を主は弟子たちと共に過ごされた、割かれたと言われます。寝食を共にし、ご自身の心血を注いで教え育てて来た弟子たちすら分かっていない。気づいて欲しい。目を覚まして欲しいのです。ですから、とても衝撃的なショッキングな仕方で、彼らの目の前において、そのメッセージを「演じて」見せられたのではないかというのです。
Ⅲ.自らが呪われる者となって
主イエスは、いちじくの木を枯らせてしまわれました。「今から後いつまでも、お前には実がないように」と、主イエスとしては珍しい、呪いの言葉をかけられたのです。先週、中会主催の灰の水曜日の祈祷会が行われました。礼拝の最後に「希望される方は前に出てきてください」と招かれ、司式者の前に並び、番になると「あなたは地の塵から取られたのだから土に帰ることを忘れてはならない」と言いながら、私たちの額に墨で十字架を書くのです。私もひんやりとした墨の感覚と共に、その言葉を聞きながらアダムに対して宣告された主なる神の言葉、「塵にすぎないお前は塵に返る」という言葉が心に思い浮かんだのです。ある種の呪いともとれる言葉です。
主イエスは木に向かって呪いの言葉をかけられた。でもよくよく考えるならば、それはいちじくの木だけの問題ではない、当時のイスラエルの人々、私たちの含め、人間なら誰もがそうでしょう。枯らされても不思議はない存在です。「塵にすぎないお前は塵に返る」、この言葉を身に帯びて生きている。しかし主はそうした私たちが朽ちていくのをよしとはなさらなかった。そうした私たちをご覧になり、私たちの呪いを自らが受け自ら呪われる者となった。それが十字架なのです。
パウロは次のように語ります。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)。
数日後、主イエスは木にかけられ、呪われた者となります。塵に過ぎない私たち人間が身に帯びなくてはいけない呪いをすべて身に引き受け、私たちを生かすためです。呪いから最も遠い、公生涯の最初に「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神からの祝福をもって歩み出されたお方。祝福を受けるのに最もふさわしい存在が主イエスでしょう。でも、そのお方に相応しくない呪いを一手に引き受けて死ぬ道を取られる。それが十字架への道です。ここに主イエスの私たちへの愛が現わされるのです。
Ⅳ.創造主なるお方としての権威をもって
これを目撃した弟子たちは驚きました。ひとこと発しただけで、一瞬で木を枯らす。彼らが驚いたのは出来事自体は勿論、そうした力を持たれた主イエスです。
神が「語ったら、必ず語られた通りの出来事となる」(イザヤ55:11)。そうした力と権威のある言葉を主イエスはここで発せられた。それはとりもなおさず、主イエスが神だということなのです。生かすことも殺すこともお出来になる、いのちの主なる神なのです。そして主は次のようなチャレンジをなさったのです。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも与えられる。」
「山を移す」とはユダヤ教のラビたちが使った表現だそうです。とても難しいことを解釈し、不可能に思えることでもやってしまう人を指す時に使われました。このとき「山を動かす」と言われたのは木を枯らせるよりももっと難しいことという意味でしょう。言葉をもって木を枯らすお方、発した言葉を出来事とするお方、主イエスは神なるお方、もしそうだとするならば、今、目の前で見せたように、いのちを取り去り、木を枯らせてしまうことがおできになるだけではなく、その正反対のこと、すなわち、枯れてしまった木を元通りに再生する、死んだものを生き返らせることがお出来になる方である。あなたたちはそれを信じるか、と問われているのではないでしょうか。
パウロは次のように語ります。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」(コロサイ1:16)。パウロによれば、御子も父なる神と共に天地創造に参与したお方。御子イエス・キリストも創造主であり、父なる神と同じ権威と力をもっておられる、という信仰の告白です。
山を造られる方であれば、山を動かすこともできる。いのちを創造された方だから、生き返らせることもできる。呪いを取り去り、祝福をもたらすことも可能なのです。だだ、そのためには大きな代償が必要でした。人間が身に負っている呪いを取り去る必要がありました。主なるイエス・キリストは、その代償を払ってまでも、「塵にすぎないお前は塵に返る」存在に過ぎない人を生き返らせ、まことの命に与る道を開こうとなさったのです。それが十字架、そしてそれに続く復活なのです。お祈りいたします。