2020年3月8日
サムエル記上8章4~22節/マタイによる福音書21章23~27節
松本雅弘牧師
Ⅰ.事の発端
今日の個所を読みますと、祭司長、民の長老たちと主イエスとの間に議論が起こっています。「何の権威でこのようなことをしているのか」。
「このようなこと」とは、前日の、境内で大暴れ、「神殿きよめ」のことでしょう。「ここは私たちが管理している場所だ。勝手なことをされては困る」と言いたかったのだと思います。
Ⅱ.問いかける主イエス
その問いに対して主イエスは直接お答えにならず、一つの問いかけをなさいました。ところで祭司長たち、長老たちは問われる側ではなく常に問いただす側の人たちです。想定外の問いかけに戸惑った彼らは互いに議論を始めます。
議論を注意深く読むと、彼らが一番気にかけていたことが見えてきます。それは自分たちの面子です。ヨハネの権威のことはどうでもよい。むしろ面子が保たれ、事柄がスムーズに運ぶのかが問題だったのです。
ところで、私は洗礼入会準備会の時によく「聖書は不思議な書物だ」と話します。その不思議さの一つは聖書が持つ私たちに問いかけるてくる不思議さでしょう。
高校の時、初めて教会の礼拝に出席し、特に教会の高校生たちが自分たちとどこか違うことに心惹かれ求道生活が始まりました。その違いはどこにあるのだろう。何でイエスと言う人が神なのか等々、そうした私の側から問いがあったので通い続けることが出来たように思います。
ただ次第に分かってきたことがありました。問いをもって出席し続けている私が今度、聖書の言葉で問われてくるのです。「床を担いで歩きなさい」、「あなたはわたしを誰と言うか」。
ある牧師が語っていました。「問われていることを知らないと、信仰はよく分からない」と。私の小さな経験からもそうだと思います。問われていることを知って初めて信仰の世界が開かれてくるのです。
カンバーランド長老教会の神学者、ヒューバート・マロウ先生は、罪を犯した人に向かって神が語った「あなたはどこにいるのか」という問いかけこそ、旧新約聖書全巻を貫く神からの問いかけなのだと語っています。
「あなたはどこにいるのか」。この問いかけに気づき、振り返った時、そこに両手を広げて私たちを迎え立つ神が待っておられるのです。
ここで祭司長たち、長老たちが問われています。今まで彼らが聞いていたイエスの教え、また働き、どれもこれもが、権威ある彼らからすれば疑わしいものばかりだ、と思っていた。
そのイエスが今、自分たちのお膝元、都エルサレム、それも神殿の境内において教えています。彼らはそのイエスを問いたださずにおれなかった。ですから主イエスを尋問した。そして返ってくる答えを、正しいかどうか、権威者である自分たちが判断しようとしたのです。
ところが権威者である自分たちの質問に答える代わりに、主イエスは逆に問い返して来たのです。その結果、ああでもないこうでもないと、祭司長たち、長老たちの間に議論が始まり、議論の末に彼らが用意した答えは何かと言えば、「分からない」という答えだったのです。
先月、説教黙想セミナーに参加しました。そこで心に残る話を聞きました。日本基督教団の牧師の加藤常昭先生が、現在の日本の教会を覆う閉塞感はどこから来ているのか。それはひとえに牧師たちの説教の貧しさから来ているとおっしゃったというのです。
頭の痛い言葉でしょう。でも本当にその通りだと素直に認めざるを得ないように思いました。その話を聞きながら神学生の時に授業で聞いた言葉を思い出していました。「牧師とは、やりたいことをやる人ではなく、やるべきことをやる人だ」という言葉です。卒業後も折につけ、この者を導き守ってくれた言葉でした。
加藤先生ご自身も牧師ですから自戒を込めてお語りになったのだと思いますが、実は信徒に向けても語っておられる。「どうか信徒のみなさん、教会をイエスさまにお返しください」、そうお願いされたそうです。
先ほど「やりたいこと」と「やるべきこと」という言葉を使いましたが加藤先生に言わせるならば、それは信徒にも求められている。信仰生活において余りにも自分たちのやりたいこと、やって欲しいことばかりに思いを集中していませんか。むしろ主が皆さんに何を求めておられるのか、願っておられるのかを主に聴く必要があるのではないでしょうか。教会はイエスさまのものです。ですから、信徒に対しても語られたのだと思います。どうかまずイエスさまにお返しください。
あくまでも基準が自分なのです。自分を中心にこうあって欲しいと思う。そして何かが起これば、やはり私を基準に判断を下す。いいか悪いか判定する。仮に思い通りにならなければ、「なぜ、どうして」と子どものように問い続けます。そして最後、「分からない」とシャットアウトするのです。この時の祭司長、長老たちがそうだったのではないか。彼らが基準、権威なのです。そのようにして彼らは判断し、主イエスの問いかけに対して答えていきました。その答えが「分からない」。これが彼らの答えでした。
Ⅲ.「分からない」との答え
説教の準備をしていて新しい気づきをいただきました。マタイは、神としての権威が主イエスに現れていたことをすでに伝えているということです。
例えば山上の説教を語り終えた時の聴衆の反応をマタイは、「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と伝えます。
また9章の中風の人の癒しの場面で、主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と神の権威で宣言されました。ここでは罪を赦す権威を主張され証明されたのです。
つまり主イエスの権威は山上の説教で語られたような生き方をもたらす権威であり、もう1つは、罪を取り除く権威です。このとき主イエスは神殿の境内で教えておられたのです。そして同じ権威をもって主は神殿を清められた。神殿にかかわる罪の清めも、福音に生きることの喜びを語ることも、実は、神の権威がなければなし得ないことだった。そこに居合わせていた人々は、主の御姿から感じ取ったに違いない。そして感じ取ったのならば、それを素直に受け入れればよいのです。ところが受け入れず、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と問いかけるのです。
Ⅳ.救いへの招き
ヨルダンの荒れ野にヨハネが登場したとき、彼が語ったのは罪の悔い改めのメッセージでした。神の民が罪を犯していることをはっきりと指摘し、生き方の転換を求めました。
あなたを探す神がおられる。神はあなたたちを探しておられるのです。「あなたはどこにいるのか」という神の呼びかけが聞こえませんか。その招きの声に応え、振り向いてごらんなさい、と神の御許に立ち返ることを求めたのです。
その招きに応じる、人間の側での具体的な行為が洗礼を受けるということでした。そしてこれは今でも変わりません。洗礼を受けるということ、それは神の権威の下にへりくだること。ヨハネはそう教えました。ですから罪人と呼ばれた人々はこぞってヨハネの前に列をなし、そしてヨハネから洗礼を受けたのです。その人々の殆どは権威なき人々でした。でも当時、自分に権威あると思っていた人たちはどうしたでしょうか。彼らは並ばなかったのです。指導者たちは動かなかった。神の権威を認めれば、自分の権威が相対化され、今まで通りの生活ができなくなるからです。言葉には出しませんが、「分からない」という立場、態度決定を保留するのです。
主イエスの権威は洗礼者ヨハネの権威と密接な関係がありました。ヨハネは主イエスを指さし、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と、主イエスこそが、「来るべき方」であることを証ししました。ですからヨハネの権威を認めるということは、まさに主イエスこそが神から遣わされた者として受け入れることでもあったのです。
神からの、この大切な問いかけに、彼らは「分からない」と答えました。苦し紛れの回答です。その結果、最後どうにも逃げ場がなくなっていく。そして〈このイエスを殺すほかない〉。それが言葉にならない、でも心に抱いた結論だったのではないでしょうか。
主イエスこそ私たちに問いかけ、私たちを審くことの権威を持たれたお方です。でもそこに留まることをなさらず、同じ権威をもってさらに道を行かれる。その解決の道が罪人を滅ぼすことによってではなく、十字架の贖いの死によって審かれてもしょうがない私たち罪人を生かすことにおいてなのです。お祈りいたします。