松本雅弘牧師
マタイによる福音書21章28―32節
2020年3月15日
Ⅰ.単純な譬え話?
「問われていることを知らないと、信仰はよく分からない」、ある牧師がそのように語っていました。主イエスは譬え話で私たちに問いかけておられます。今日の箇所でも譬え話を語っておられます。でもとてもシンプルな話なのです。ある人に二人の息子がいた。最初に父親は兄息子ところに行き「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言うと「いやです」と答える。でも後で考え直し、ぶどう園に行きました。それとは知らない父親は弟息子のところへ行き同じことを言います。すると「お父さん、承知しました」と答えますが、彼は言っただけで行かなかったという譬え話です。
この話が語られたのは前回と同じ場面、祭司長や民の長老たちに語られました。そして話し終えた後、「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と質問する。誰でも答えられる質問です。彼らも「兄のほうだ」と答えるのです。
この箇所は余りにも単純なので多くの注解者は「読めば分かる」ということで細かな解説を加えません。そうした中でも、「では一体なぜ、主イエスはこんなにも分かり易い譬え話を、敢えて語ったのか、この時の主の真意はどこにあったのか」と考える専門家もいるようです。
Ⅱ.2つの異なる写本
この関連で注目しなければならないことがあります。以前の口語訳聖書では、兄息子と弟息子が入れ替わって登場してくる点です。
口語訳では兄は最初いい返事をしますが、ぶどう園には行かない。いっぽう弟の方は「いやです」と言った後、心を変えてぶどう園に出かけていく。こうしたことが生じた理由は、それぞれの読み方を支持する2種類の写本が存在しているからです。私たちが読んでいるマタイによる福音書ですが、福音書のオリジナルのテキストは失われてしまいました。残っているのは書き写した写本です。
聖書学者たちは現存している写本を照らし合わせ、福音書の復元作業をします。現在進行形の作業です。そして何年かに一度、限りなくオリジナルに近い「底本」を完成し、各国に持ち帰り翻訳をする。そうして出来上がったのが口語訳聖書であり、新共同訳聖書であり、昨年刊行された聖書協会共同訳です。
では、そもそも異なる写本がなぜ存在するのか。一般に2つ写本がある場合、どちらを採用するかとなった時、読んで理解しやすい写本ほど誰かが書き換えた可能性が高いと学者は判断します。
今日の譬え話に限って言えば、キリスト教には初期の段階からユダヤ教に対する優越意識、反ユダヤ主義があったと言われています。初期のクリスチャンは、この兄をユダヤ人とし、自分たちクリスチャンを弟に重ね合わせて考えていたのではないか。ユダヤ人に比べ、自分たちは後から聖書の神さまを知ったわけですから弟の立場となります。
兄であるユダヤ人は神に選ばれていたにもかかわらず、いい返事はするが御心を実行しない。逆にクリスチャンは後から神の民になったという点では弟のような存在ですが、キリストを信じ洗礼を受け、「ぶどう園」に生きている。そうした図式です。この図式に従って兄と弟を書き換えてしまった。これが、現代の本文批評の世界の通説のようなのです。何でこんな話をするのか。そもそも主イエスの問いに戻ることが必要なのではないかと思うからです。
Ⅲ.神の望みに生きる
彼らが元々問われていた問いとは何か。それは「分からない」としか答えることが出来なかった問いでしょう。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」。この問いかけを巡るやり取りがあったので、主イエスの口から今日の譬え話が語られることになりました。そのようにして今日の譬え話を読み返していく時に改めて、主が問いかけておられる言葉があるのに気づかされます。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたのか」という質問です。
父親の望みとは当然、神の望みのことです。聖書は私が願うことがあるのは当然ですが神さまが望んでおられることがあるという事実を伝えます。父なる神は何を望んでおられるのか。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたのか」と主は問いかけておられる。「神の望み/御心に生きているか」、いや、「神の望み、御心が分かるか」とそうした生き方へと招いておられます。でもそのためには全面的に神を信じ、信頼する姿勢が求められていると思うのです。
Ⅳ.神の愛を実感してほしいという願い
ここで祭司長、長老たちは正しい答えをしました。ただある牧師が語っていました。ここで彼らは、この物語が自分たちの物語だということに気づいていなかった。だから、すんなり答えてしまったと。でももし自分たちの話だと分かったならば、ここで簡単には答えられず、前回同様「分からない」と答えたかもしれない。問題はぶどう園に行くのか行かないのか。ぶどう園が意味する神の国、慈しみ深い神さまの御心の支配に、自分を委ね任せて生きるかどうか、が問われてくる。くどいようですが神の御心を信頼しない人がいます。逆に最初「いいえ」と言うけれど後になって考え直し御心に生きようとする人もいる。そうしたそれぞれの人の代表として主イエスは、「祭司長や民の長老たち」と「徴税人や娼婦たち」を比較し「徴税人や娼婦たち」のほうが「先に神の国に入るだろう」とおっしゃっています。これは大変な言葉でしょう。
徴税人とはユダヤ人からしたら裏切り者です。その徴税人と娼婦です。そうした人たちの方が神の国に入る。ただ果たして徴税人や娼婦の方が祭司長や長老たちに比べどれだけ、その行いにおいて優れていたのでしょうか。どれほど善いことをしたのでしょうか。それを解く鍵が次の主の言葉でしょう。祭司長、長老たちがせず、徴税人や娼婦たちがしたことは信じること、いや考え直して信じることでした。
「神の国に入る」、それは慈しみ深い神のご支配の中に生きるということです。神が慈しみ深いお方であることを信頼し、そのお方に身を任せてしまうことです。その結果、本当に平安を味わうことが出来る。喜びを経験できる。しかし祭司長、長老たちは主イエスによって神の国がもたらされていても、そのご支配が見えていない。ですから自分で自分を守らなければなりません。結局、常に思い煩いで心が一杯、思い通りにならない焦り、憤りが内側から込み上げてきます。でも神の守りがあるのです。そのお方がよいお方です。「その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」とパウロが語るように、神さまというお方はご自身の目の瞳のように私たちを愛しておられ、その私たちのために全てのことを相 働かせて益とするとの強いご意思と、必ず益とすることの出来る御力とを兼ね備えておられる神さまなのです。ですから大丈夫なのです。でも、この時の祭司長、長老たちは、その神を信じていない。その神さまのご支配が見えませんから、常に自分でどうにかしなければと考え、焦り、苛立つのです。
私は、この31節の主イエスの言葉を読みながら、ルカ福音書7章に登場する娼婦のことが心に浮かびました。彼女も主に招かれ「ぶどう園に行った人」の1人でしょう。ですから感謝の涙で主の足をぬらし、髪をほどいてそれをぬぐい、さらに高価な香油を塗って主への愛を表した。彼女がそれだけ主を愛するのは、主がまず彼女を愛してくださったから。彼女は心の底から赦しに現わされた主イエスの愛を実感していたのです。「徴税人や娼婦たちの方が、先に神の国に入る」のです。エリコに住む徴税人のザアカイも「ぶどう園」に招かれました。彼は喜んで主イエスを迎え、「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれからか何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」と言えたのです。そこでも「徴税人や娼婦たちの方が、先に神の国に入る」のです。今、私たちは新型コロナウイルス感染症拡大という、経験もしなかった出来事に遭遇し足踏みを余儀なくされています。たとえそうだとしても私たちを取り巻く確かな現実は何か。それは私たちがすでに招きに応え、神の国の中に生かされているのです。慈しみ深い神さまの愛の傘にすっぽりと包まれている。私たちを取り巻くすべての状況に先立って神に愛されている子どもとして、力強い神さまの御手のご支配の中に守られているのです。慈しみの神がいつも共にいてくださる。そのお方の御心こそが最善である。だからこそ立ち止まって考え直すことが求められるのです。
私たちは誰であり、私たちはどこにいるのか、そのことを常に心に留めたいと願います。
お祈りいたします。