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主日共同の礼拝説教

派遣される恵み

2020年3月22日
和田一郎副牧師
レビ記19章1-18節
1テサロニケ5章14-15節

はじめに

先月の「灰の水曜日」から受難節に入りましたが、ちょうどこの時期に新型コロナウィルスの問題が世界を覆っています。人との接触が制限され、自宅などで多くの時間を過ごすことを求められてしまったこの時期に、私たちは神様との関係を自己吟味する時となっています。今日の聖書箇所では、パウロがテサロニケの教会の人々に対して、信仰生活の在り方を示しています。まさに私たちが自己吟味する時期に、自分達の信仰生活について、問われている御言葉だと思います。

1、「怠けている者」

14節で、パウロはまず、「怠けている者たちを戒めなさい」と、自分の仕事をしっかりとしていない人のことを戒めるように勧めています。これは二つ目のテサロニケの手紙でも、パウロは働く事について書いていて「働かざる者、食うべからず」(2テサロニケ3:10)という諺(ことわざ)にもなりました。
当時のテサロニケの信徒たちの中には、イエス・キリストの再臨によるこの世の終わりがもう近いのだから、一生懸命働く意味がないという思い人がいたようです。パウロは、ただ働いていない人に、働きなさいと戒めているのではなく、それは教会を建て上げる方向へと向かっていないということです。同じ地域に住む住人として役割を果たしてこそ、その人を通して、教会がその地域をキリストの福音で満たしていきます。
宗教改革者のルターは16世紀の当時、日常から離れた修道院生活が、神様にすべてを捧げる最高の生き方とされた時代に、そうではなく、世の中に入って働く信仰者としての意味を与えました。人はこの世の職業に就くことによって、神の召し(calling)に応えることができるという生き方です。職業は神の意思によって、一人ひとりが召された場であると受け止めたのです。この手紙を書いたパウロは、会堂で説教をしたり、手紙を書いてキリスト教に偉大な貢献した人ですが、普段は革製のテント作りをする職人でした。勤勉に働くことも、教会を建て上げて神の栄光を現わしていくことになる。あなたたちはどのように働いているだろうか、というパウロの問いかけです。

2、「気落ちしている者」

そして、「気落ちしている者たちを励ましなさい」と教えています。気落ちしている人がいるにも関わらず、それに無関心であれば、教会を建て上げることにはなりません。愛の反対語は無関心だと言われます。今、コロナウィルスによる混乱で、周りに気落ちしている人がいないだろうか、そこに目を向けているだろうかと問われます。
旧約聖書のダビデが、気落ちしている人たちに向けた態度と言葉が思い出されます。ダビデが自分の集落をアマレク人に襲われて、家族や財産を略奪された時、兵士を引き連れて取り返しに行った時の話です。たび重なる闘いで、兵士の中には疲れてついて行くことが出来ない者も出てきました。もう力が残っていない人は荷物番として残り、ダビデは体力が残っている者だけで、アマレク人を追跡し彼らを倒して、家族や財産を取り返します。そうして、戻って来た時に周りの兵士が言ったのです。途中で疲れて付いて来れなかった者は、取り返したものを受け取る資格がない。最後まで戦闘に関わった者だけで山分けしようと言ったのです。しかし、ダビデはそれを認めませんでした。
「ダビデは言った。『兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。誰がこのことについてあなたたちに同意するだろう。荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出て行った者の取り分と同じでなければならない。皆、同じように分け合うのだ。』この日から、これがイスラエルの掟、慣例とされ、今日に至っている」。(サムエル記30章23-25節)
ダビデは、今自分が置かれた状況は、自分で勝ち取ったものではないと言ったのです。主が与えてくださった、主が守ってくださった、それを自分だけのものにしてはならない。気落ちしている者を励ますというのは、相手を気の毒に思うのではありません。土から生まれ土に返るにすぎない、はかない存在である私たちに、神は恵みを与えてくださいました。自分の手にあるもので、神様から与えられたのではないものなどありません。賜物も時間も仕事も与えられました。私たちは、神に与えられたものを分け合うという恵みも手にしています。「兄弟たちよ、主が与えてくださったものを・・・分け合うのだ」これがイスラエルの掟、慣例となったように、気落ちしている人を励ますことを通して、与えてくださったものを分け合う、ということが自分の掟、慣例となっているだとうか、と問いかけてきます。

3、「弱い者たち」(霊的な弱さ)

また、「弱い者たちを助けなさい」と言われています。人は誰でも弱さを抱えています。ここでパウロが言う「弱い者」という意味は、病気や高齢、社会的に弱い立場の人という意味と、もう一つは霊的な弱さ、つまり信仰的にまだ成熟していない人を指しています。信仰の弱さや、病気や高齢などで、弱さを覚えるような状況は、時として信仰を成長させます。神の力は弱さの中でこそ発揮されます。イエス様は弱さの中で十字架に架かられましたが、その弱さは死に打ち勝つ勝利となりました。主は弱さの中に力を発揮させる方です。私たちは弱さの中に神の力は働かれます。「弱い者たちを助ける」のは、そこにこそ働かれる神様の力を信じること、主の力を信頼して心を寄せることが、本当の支えになるのです。

4、「忍耐強く」(パウロの経験)

「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」という忍耐強くというのは、新改訳聖書では、「寛容でありなさい」とありました。忍耐することは寛容であることです。そして、寛容であることと、赦すことは重なります。私たちは赦されています。私たちが重ねてきた、数えきれない罪は赦されました。ですから他人のことも赦すべきです。忍耐強くあるべきです。私たちは、乗り越えられない試練は与えられないと言われていますから、そうであれば、乗り越えられないほど、赦せないことも無いのではないでしょうか。

5、悪をもって悪に報いない

「悪をもって悪に報いることのないように」というのは、イエス様の教えにもあります。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイ福音書5章38-39)
「目には目を、歯には歯を」というのは、出エジプト記(21:23)、申命記(19:21)、またハンムラビ法典にも書かれている言葉です。しかし、やられたらやり返すといった、復讐を正当化する法律ではありません。必要以上の報復を制限するために定めたものです。しかし、イエス様の教えはそれを超えていました。相手に頬を打たれたら、さらに別の頬を向けなさいというものです。イエス様は、実際に罪がないのに十字架で処刑するという人間の悪に対して悪で報いるのではなく、自分自身を捧げて無抵抗の愛を示されました。
イエス様は、相手がしたことに応じないという選択があることを示しました。相手がしてきたことにも、相手を越えて、自分が生きているのは神の国という領域であること、天に国籍をもつものとして、神の国に立つことができるのです。イエス様は、この世では弱い者として処刑されましたが、死に打ち勝つ勝利者として復活され神の国に君臨されています。私たちも、その神の国という領域に生きることが出来ます。ガンジーやキング牧師も、非暴力という選択をして世の中を変えました。私たちは彼らのようにキリストに倣って、神の国に立つという生き方をしているでしょうか。

まとめ

今日の御言葉は、いつも私たちの礼拝の最後に派遣の言葉として用いている言葉です。
私たちの一週間は日曜日から始まります。礼拝の中で聖書の御言葉を受け取り、送り出され、一週間をそれぞれ過ごし、また日曜日に神の前に集められます。そこで一週間の罪を告白し、御言葉とともに派遣されて行く、この繰り返しの中で生きています。
いま世の中は、かつて経験したことのないウィルス感染のことで戸惑いがあります。しかし、私たちは、この礼拝から送り出される時、手ぶらで送り出されるのではありません。御言葉という確かなものを手渡されて、その御言葉に生きるように送りだされます。そのことを私たちは「派遣される」と言います。そこには恵みがあります。キリストの受難と十字架の代償として救われた者として、派遣される恵みに生きていきましょう。お祈りをいたします。