カテゴリー
主日共同の礼拝説教

感謝の作り手

和田一郎副牧師
出エジプト記16章1-8節,1テサロニケ5章16-18節
2020年3月29日

はじめに

私たちは、この一週間を新型コロナウィルスのことで、不安や戸惑いの中で過ごしています。外出を自粛するように求められて緊張を強いられる状況にあります。私たちの教会もかつてなかったことですが、今日の礼拝はインターネットで映像を配信する礼拝となりました。そのような中で、今日の御言葉は「いつも喜んでいなさい、祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」という御言葉です。今の状況にミスマッチな御言葉に思えてしまいます。しかし、神様の御言葉にミスマッチはありません。御言葉は自分で選ぶものではなく与えられるものです。
あの「山上の説教」の中でも、イエス様は言われました。「心の貧しい人々は幸いである」「悲しむ人々は幸いである」と。あの山に集まっていた人達は、お前たちに神様の祝福などはないと言われていた人達でした。自分達でもそう思っていたのです。ですからイエス様に「心の貧しい人、悲しむ人は幸いである」と言われても「ミスマッチだ、なにが幸いだ」という驚きがあったのです。(マタイによる福音書5章1-4節)
今日の御言葉も、いつも喜んでいなさい、祈りなさい、どんなことにも感謝しなさいと言われても、今はそんな気分じゃないと感じます。楽しみにしていた外出や集会も、延期かキャンセルです。それどころか仕事がどんどん減っている人がいます。収入の見通しがたたない人がいます。逆に仕事が忙しすぎて疲れている人もいます。もし、この御言葉を本当に受け止めようとすれば、逆に厳しい言葉に聞こえてきます。しかし、神様にミスマッチはないと言いましたが、自分に対して不釣り合いな、神様の問いかけなどはないはずです。

Ⅰ.いつも喜び、祈り、感謝する

この御言葉は、パウロが自分の経験から、このことを書いているといえます。パウロが、かつてフィリピの町に行った時のことです(使徒言行録16章16-34節)。同行していた弟子のシラスと一緒に捕らえられ、牢に入れられてしまいました。パウロ達が町を混乱させていると、言いがかりをつけて役人に引き渡したのです。パウロ達にとってみれば、思ってもみなかった理不尽な出来事でした。二人は衣服をはぎ取られ鞭で打たれ、足に
は木の足かせまでつけられ、牢に入れられました。牢には他にも囚人がいましたが、二人は一番奥の牢に入れられ、鞭打ちの痛みに耐えていたはずです。ところが、夜になって彼らは「賛美をして、祈っていた」というのです。賛美というのは、神様のことを喜び感謝し称えて歌うことです。喜びと感謝がなければ賛美はできません。彼らの喜びと感謝の思いが、その牢獄の中に響きました。「ほかの囚人たちは聞き入っていた」とあります。真っ暗な牢獄が、彼らによって神を賛美し、礼拝する場となっていたのです。そこに突然、大地震が起こりました。牢の戸が開き、すべての囚人の鎖が外れてしまったのです。厳重に監視するように命令されていた看守は、てっきり囚人たちは逃げ出したに違いないと思い込んで「剣を抜いて自殺しようとした」。しかし、すでに喜びと賛美の場となっていた牢の中の囚人たちは、パウロに倣って誰一人として動かなかったのです。看守の耳に「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」というパウロの声が聞こえました。こうしてこの看守は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という言葉を受け入れました。
あの牢獄の中で起こったことは、いったい何だったのでしょうか。もともと、そこは殺伐とした希望の見えない暗い場所でした。看守たちにとっても、囚人たちにとっても喜びなど生まれない場所だったのです。そこに、パウロとシラスが入れられて、彼らの中から喜びと感謝から湧き出る、賛美が歌われ始めました。そして、看守にも囚人の心にも伝わったのです。神への喜びと感謝する者のもつ「自分には無い何か」です。
その後、信仰を受入れた、看守とその家族はその喜びを分かち合った、と記されています。喜びは喜びを生み、感謝が感謝を生んでいきました。どのような場所であっても、神を喜び感謝するところで状況は変えられます。パウロが、あの暗い牢獄の中で、鞭打ちの痛みに耐えながら、そんな時でも賛美できたのはなぜでしょうか。

Ⅱ.キリスト・イエスにおいて

今日の聖書箇所「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」に、続く言葉は「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(18節)とあります。キリスト・イエスにおいて、喜び、祈り、感謝することを神は望んでおられるというのです。パウロは、自分自身の経験においても、キリスト・イエスにおいてこそ喜び、感謝できたからです。パウロが宣教活動の中で、鞭で打たれたのは今回だけの事ではありませんでした。パウロは次のように言っています。「鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました」。まさに苦難に苦難を重ねた人生です。(コリントの信徒への手紙二 11章25-26節) 私たちの人生にも、行き詰まりがあったり、道を見失ったりすることがあります。パウロも偉大な宣教者として類まれな賜物を発揮しながらも、苦難を味わって生きていました。その波乱万丈な生き方の中で、パウロは自分のウィークポイント、自分のスランプ、そこに神様の恵みは働いて、十分に満たしてくださることを経験したのです。
パウロが、自分の弱さを取り除いてくださいと願った時、パウロは主の言葉を聞きました。「主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。(私の)力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』」と、パウロは聞いたのです。だから、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と確信をもったのです。(コリントの信徒への手紙二 12章9節)
パウロの確信というのは、「キリストが私の中にいる」というところです。その自分の中のキリストは、おごり高ぶったり、自分を過信するところでは働かず、「自分の弱さを知る」ところでこそ、十分に発揮されるものだと。
パウロの波乱万丈な生き様は、私たちには、強さのようにも見えます。くじけることがない強い意志、強さに見えますが、パウロにとっては「弱さを知ること」でした。
それは、キリストの弱さと重なるのです。イエス様がののしられ、鞭を打たれて十字架で死なれた姿は、まさしく弱い者の姿そのものでした。しかし、そこに十字架の勝利がありました。イエス様は弱さの中で栄光を現わした方です。パウロはイエス様が成してくださったことと、自分の受けた苦難を重ねて「弱さの中でこそ強い」と言ったのです。自分の中にいるイエス様が、弱い時こそ強さを発揮される。この確信があって、そのことを喜んで、そのことを祈って感謝したのです。

 

Ⅲ.感謝の作り手

そんな、パウロに比べると、私たちは喜びや感謝よりも不平不満ばかりが口から出てきてしまうのではないでしょうか。旧約聖書の中で、エジプトの奴隷生活から解放されたイスラエルの民が、あれだけ神の救いと恵みをいただいていたのに、口から出てくるのは感謝どころか、愚痴や不満ばかりでした。これから長い旅が始まる、新しい荒れ野での生活が始まる時、不安と期待がある中で「飲む水が足りない、食べるものはどこだ」と、先行きの不安が、愚痴や不満となって、それは家族や民全体に広がっていったのです。(出エジプト記 16章3-10節)
早いもので、今日は3月の最後の日曜日ですので、今年度も終わりに近づいてきました。今週からもう4月です。新しい生活が始まる人もいるかと思います。新しいクラス、新しい職場、新しい人との出会いもあるのではないでしょうか。イスラエルの民のように、これから新しい旅が始まる時の、ちょっとした不安もあると思います。まして、コロナウィルスの影響で、なおさら心が揺さぶられ、先が見えない不安があります。オリンピックも延期されてしまって、こんなことが、自分の人生の中で起こるものだろうかと考えてしまいます。しかし、思い起こしてみると9年前、東日本大震災の時も「こんなことが、自分の人生に?」という経験をしました。
私はその時にボランティアで行かせて頂いた、気仙沼の教会の嶺岸先生のことを思いだします。ご自身も被災者として仮設住宅での生活をしていた先生が、いつも「感謝です、感謝です」と、口癖のように言っていた姿を思い出します。その感謝する姿から、こちらも感謝の思いが湧いてきて、感謝が感謝を生む様子を見ていると、とても励まされました。嶺岸先生は「感謝の作り手」、感謝が湧き出て、感謝をまわりに配っていたと思います。あのような災害にあっても、自分と共にいる神様に「あなたは弱い時こそ強い方、あなたの恵みはわたしに十分です」、という御言葉を現わしているように思いました。
私たちの生活の場に、感謝の心を携えて派遣されて行きたいと思います。受ける者ではなく与える者として、喜びを作り感謝を与える者として、生活の場に仕えていきましょう。お祈りをいたします。