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主日共同の礼拝説教

今日こそ、喜び祝おう

松本雅弘牧師
マタイによる福音書21章33―46節
2020年4月5日

Ⅰ.はじめに

今日は主イエスがロバに乗ってエルサレムに入城なさった棕櫚の主日です。今日から受難週が始まります。マタイ福音書によればロバに乗って入城された主イエスは神殿に直行し、境内で売り買いをしていた人々を追い出し両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返し「宮きよめ」をされました。
一夜明けた月曜日の朝、再び神殿に戻ってこられた主は教え始められたのです。そこに祭司長たち、民の長老たちがやって来て、「何の権威でこのようなことをしているのか」と質問してきました。主イエスは彼らに向かって「二人の息子のたとえ」を語られ、続けて今日の「ぶどう園と農夫のたとえ」を語られたのです。

Ⅱ.ぶどう園と農夫のたとえ話

私はこのたとえ話を読みながらカンバーランド長老教会のクリスチャンスチュワードシップ、クリスチャンの管理の務めという聖書の教えが心に浮かびました。神は天地の造り主なるお方で、人間は神が造られた世界の管理者です。まさに農夫たちと同じです。あくまでもぶどう園の所有者は主人で、私たちはある一定期間、神から預かっている賜物の管理を任されているのです。ところがたとえ話に登場する農夫たちはぶどう園を自分のものにしようとするのです。真の主人をないがしろにし自分が主人であるかのように振舞うのです。
ところで公生涯の最初、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞かれました。メシアとしての具体的な働きが全く始まっていなかった時、すでに父なる神はイエスさまをご覧になり、「愛する子、わたしの心に適う者」とその存在を喜んでおられたのです。そして大切なことは、これは私たちにも当てはまる真理なのです。「神さまが愛してくださっている。ゆえに私は存在する/生きることが出来る」ということです。
17世紀の哲学者デカルトは「我思う。ゆえに我あり」という有名な命題を提示しましたが、今の時代は、「我、持つ。ゆえに我あり」という時代なのではないかと思います。人間としての価値は、その人が成したことにかかっている。洗礼の後、

主イエスはサタンの誘惑を受けるのですが、その誘惑は人間が経験する象徴的、普遍的な誘惑なのではないかと言われます。物を所有すること、世間からの評価、この世での影響力、この3つです。こうしたことをどれだけ持っているかによって人間の価値が決まる。それがサタンが私たちの心に刷り込む、この世の価値観、「我、持つ。ゆえに我あり」という世界観です。でも聖書は、その価値観を真っ向から退けます。「我、持つ。ゆえに我あり」ではなくて、「神、我を愛する。ゆえに我あり」。創世記の最初から、繰り返し語られているメッセージなのです。
私の価値は人と比べて何をどれだけ出来るか、どれだけの持ち物やどのような実績や肩書があるか、どれだけ影響力を持っているのか、そうした一つ一つのことのゆえに、価値が決まるのではないのです。そうではなく、聖書によるならば、「神さまが愛してくださっている。ゆえに生きる」のです。愛の神さまが私たちの存在の根拠だからです。被造物である私たちが、その存在の根拠である神から離れ、真の神を神さまとして礼拝しないならば、別の何かをもって自分を支えなければならなくなる。それが、物の所有であり、世間からの評価や周りへの影響力であったりする。そうしたものを少しでも多く獲得することに自らの存在をかけてしまうのです。でもそうした生き方は農夫が主人に成り上がる生き方です。ですから誘惑を受けた主イエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とおっしゃった。「神を神としなさい。主なる神さまだけを礼拝しなさい」と言われたのです。
カンバーランド長老教会の「礼拝指針」に、「礼拝するとは、人間が人間になることです」とありますが、神さまを神さまとして礼拝するとき初めて、私は主人ではない、農夫なのだということをしっかりと心に留めることができる。そしてそうすることで、農夫本来の生き方が示されていく。
しかも33節、34節にありますように、獣からぶどうを守るために垣根をめぐらし、搾り場を掘ってぶどう酒造りに備える。さらに外敵から守るために、見張りのやぐらを立てる。本当によく整えられたぶどう園です。そうした上で、農夫に託したというわけですから、この主人は実に素晴らしい主人なのではないでしょうか。私たちは、こうした慈しみ深い主人の許で農夫として生きることが許されているのです。

Ⅲ.私たちの罪―自分が主人になろうとすること

さて譬えを語られた後、主イエスは彼らに「ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」と投げかけています。譬え話の結論を彼らに考えさせているのです。すると彼らは「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」と答えます。どこか他人事に聞こえます。
ただそうした彼らでしたが最後に自分たちのことであると悟る。ただその後、悔い改めたかといえば、皮肉なことにこの譬え話の通りの行動に出てしまう。主人である神さまの独り子、主イエスを捕らえ殺すことへと一気に向かっていく。その詰まりが十字架でした。
ところで洗礼入会準備会などでよく問題になることの1つに、イエスに手をかけたのは二千年前の彼らであり、今の私たちは無関係なのではないか、という問いかけです。確かに私たちは直接、主イエスを十字架にかけてはいません。ただこの世界という「ぶどう園」で彼らと同じように、私もまた「主人」であるかのように振舞っていないだろうか。限りなく自己中心に生きてはないだろうかと思うのです。
31日に家族からラインが入りました。緊急事態宣言を発令され流通がストップする。今のうちに食料や生活必需品を確保しておくように。この情報を家族や大切な人だけに流すように、というものでした。正直、私の心は動揺しました。本当に自分のことばかり、真の主人である神さまの御心に聴こうとしていないと思わされたのです。主イエスが、この譬え話を通して示そうとなさったことは、まさに私たちの心の中にしっかりと根を張るようにしてある罪だったのではないか、と思うのです。

Ⅳ.今日こそ、喜び祝おう

では解決の道はないのでしょうか。本当に幸いなことに主イエスはその先も備えておられる。ここで主は「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」と詩篇の一節を引用されました。建築家のお眼鏡にかなわないで捨てられた石が、実は建物を建てるにあたって最も大切な役割を担う石となったという。
まさにこの後、主イエスは彼ら祭司長や民の長老たちによって「ぶどう園」の外にほうり出され殺される。でも、その主イエス・キリストこそが、「隅の親石」となる。人類の救いの親石、なくてはならない救いの御業の基礎になると宣言されたのです。この詩篇は次のように続きます。そこには本当に不思議な言葉が続きます。
「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び踊ろう。…祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。…あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。」(詩篇118:24-28)
「捨てられた石」である主イエスによって、救いの道が開かれていく。捨てられることの究極である十字架は、十字架で終わらなかったのです。「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」とありますように、本当に不思議なことに、捨てられた、その石が父なる神によって拾われ、用いられ、そこから新しい世界が始まっていく。そうです。十字架が喜びの復活へとつながっていく。そしてその時、「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び踊ろう」と、主が用意してくださった救いに与る喜びのゆえに、心から主をほめたたえることが出来る。
私たちはすでに、慈しみ深い神が治めておられるぶどう園にいて、神に愛されている神の子として生かされている。そのことを忘れずに、この1週間を歩んでゆきたいと願います。お祈りします。