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主日共同の礼拝説教

婚宴に招かれて

松本雅弘牧師
マタイによる福音書22章1―14節
2020年4月19日

Ⅰ.はじめに

都エルサレムに入城された主イエスは翌日、神殿の境内に入り教えられました。そして「何の権威でこのようなことをしているのか」と主イエスに詰め寄った祭司長たち、長老たちに対し次々と譬えをお語りになりました。今日の個所は3つ目の「婚宴のたとえ」です。

Ⅱ.婚宴にたとえられている天の国

主イエスは「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と語り始めます。主イエスが教える「天の国」、マタイ以外の福音書では「神の国」という言葉が使われていますが、これは死んだ後に行く所というよりはむしろ、宣教の最初から「悔い改めよ。天の国は近づいた」と教えた、今、すでに訪れている、王なる神のご支配という意味での「天の国」を意味しています。そうした天の国は王子の結婚のために王国が開く祝宴のようなものだとおっしゃるのです。しかし、その最高の祝いの席に御呼ばれしながらも人々は「来ようとしなかった」のです。家来たちの招き方に問題があったと考えたのでしょうか。王は別の家来たちを集め、わざわざ招く際の言葉までも伝えたうえで遣わすのです。王自身の熱い思いが伝わって来ます。ところが結果は無残。招かれた人は誰も来ようとしません。色々なことを考えたのでしょう。仕事をしたほうが得だと考えたのです。
また中には招きに応じないどころか、王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺す人までいたのです。最初彼らも王が送った家来の話を聞いたことでしょう。家来たちは王の熱い思いを知っていましたから一生懸命に心を込め丁寧に「すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」と王から聞いたそのままの言葉を「王様からの声」として伝えたことでしょう。しかしそれを「うるさい」と感じたのです。煩わしく耳障り、いい迷惑だと感じたのだと思います。招かれた人々は「さあ、婚宴においでください」という、その声を消すために、声を発する家来たちを捕まえ消してしまう。それはキリストの十字架そのものでした。
なぜ主イエスは殺されたのか。それは主イエスが、「さあ、婚宴においでください」と神の招きを伝えたから、神の言葉を語ったからです。その神の言葉は私たちを救いに導く「よき知らせ」、福音です。招かれた側は、その招きに応じるべきでしょう。「本当にありがとうございます」と知らせてくれたお方の手を握り、心からの感謝をもって応えてもいいはずです。でもそうしないのです。なぜなら招きに応じるならば、自分の生き方を変えなければならないことに感づいているからです。ですから、その声が聞こえないように、その声を殺そうとしたのではないか。それほどまでに、私たちは自分の生き方を変えたくないのです。
では、王様はどうしたでしょうか。「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」とあります。ただ大切なことは、主イエスはここで譬え話を締めくくってはおられない。この譬えには次のような続きがあります。「そして家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』」
人々は招きに応じてこなかった。婚宴は準備万端整っている。そこで王は何をしたか。何と家来たちに命じ、「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」ということでした。これは驚きです!「町の大通り」という言葉は聖書協会共同訳では「四つ辻」と訳していました。要は、「境目/ボーダー」のことです。エルサレムという都の境目、もっと言うならばユダヤの人々の国と、その外に生きている異邦人、神さまを信じていない人々が住んでいる国々との境目を意味する言葉です。その所に立って婚宴に招くように、それも、「見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」というわけですから、いわば、「片っ端から誰でもいい。連れて来なさい」という命令です。
考えてみますと、そうした国と国との境目に立って、「だれでも婚宴に連れて来なさい」ということは、それまでユダヤ人に限定されていた招きが、すべての人に及ぶようになったことを意味するでしょう。しかも招かれた人たちは善人も悪人も皆招かれた。そこには善人と悪人の区別すらありません。そう言えば、主イエスは山上の説教で、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせる」(マタイ5:45)と父なる神さまのことを、そう教えてくださいました。まさにその通り、ユダヤ人異邦人の区別なく、神さまを信じている人、そうでない人もみんな区別なしに婚宴に招かれたのです。何という懐の深さ、気前の良さ、と思います。
ところで、ここで一つ引っかかる言葉があります。それは8節に出てくる「ふさわしくなかった」という言葉です。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」。つまり最初に招いた人々はふさわしくなかったのです。では招かれるに値する「ふさわしさ」の基準って何だったのでしょう?例えば「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、」と次に続く言葉は普通でしたら、「ふさわしい人を探して連れて来なさい」となるはずだと考えます。ところが主イエスは、「招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、誰でもよいから片っ端から呼んで来なさい」とおっしゃる。ここで王様にたとえられている神さまの心のうちにある「ふさわしさ」の基準が、正直、よく分からないのです。何故なら、町の大通りに出て、見かけた者誰もがふさわしいが、一方、最初に招待されていた人たちはふさわしくなかった、ということですから。
ちなみに、この「ふさわしい」というギリシャ語、その根本的な意味は「重み」という意味だそうです。秤で測る重さ、値打ちのことです。婚宴の席には「善人も悪人も皆集まって来た」わけで、悪人にさえも、婚宴に招かれるにふさわしい重みがあった、それはいったい、どういうことか、と考えてしまうのです。皆さん、いかがでしょうか。
結論から言いますと、それを解く鍵が11節の「礼服」にあるように思うのです。

Ⅲ.ふさわしさとしての礼服としてのキリスト

11節からの箇所です。いざ王様が婚宴の会場にやって来ました。そうしますと、そこに礼服を着ていない人が一人いた。その人を見つけた王様は12節。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と質問し、そして13節。側近の者たちに命じて、彼を外に出してしまいました。「礼服を着ていたかどうか」がポイントだったということでしょう。ただ1つだけ疑問が残ります。元々この人は通りがかりの人です。彼が礼服を持ち合わせていること自体が不自然、また王様が礼服の着用を求めること自体が理不尽でしょう。ただ、調べて分かったことがありました。当時の習慣では権力のある者が人を招待する場合、客たちのために礼服まで用意したのだそうです。だとすれば「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」との問いかけは「あなたのために私が用意した礼服をどこにやったのか」と言った問いかけであったとも考えられるのです。
ここで主イエスが語っておられることは神さまの招きです。私たちが招かれるために神さまは何をしてくださるのか。もっと言えば、神の御前に出る時、私たちの側で用意できる礼服は一着もないということです。使徒パウロは「主イエス・キリストを着なさい」(口語訳ローマ13:14)」と語っています。キリストが礼服なのです。父なる神が自らの手で、私たちのために用意し、装わせてくださる礼服、それはイエス・キリスト以外にない。

Ⅳ.すでに私たちは招かれている

私たちは通りすがりに招かれた者のように、私の側に「ふさわしさ」は何もありません。まさにキリストの体なる教会につながる私たちは皆、王子である主イエス・キリストご自身がわざわざ大通りに出て招いてくださり、そのお方ご自身が、シミも傷もない義の「礼服」として、私を覆い隠し、私の救いとなって装ってくださる。私たちは、このキリストご自身という礼服をいただき、神さまの祝宴、恵み深い神さまのご支配の中に今日も生かされているのです。私たちは、今、どこにいて、そしてどのような者とされているのか、そのことを覚えつつ、この1週間、歩んでまいりましょう。お祈りします。