和田一郎副牧師
詩編51編12-19節,1テサロニケ5章19-22節
2020年4月26日
1、「霊の火」
ここ数日、インターネットで礼拝や祈祷会を見ているという声を聞いて、とても励まされました。しかも、普段はパソコンを使わないのだけれど、礼拝の動画を見る為に、ご家族に手伝ってもらってインターネット礼拝をしているそうです。そのようにしてでも、礼拝に与かりたいと思わされる時、それは聖霊が働いているといえます。パウロは今日の聖書箇所で「霊の火を消してはいけない」と言っています。聖霊の働きというのは、炎のように激しく燃える時もあれば、ロウソクのともし火のように弱々しい時もあります。
聖霊の炎を消してしまわないように、その働きが失われてしまわないようにしなければなりません。
2、「預言を軽んじてはいけない」
そのために必要なことが、次の20節の「預言を軽んじてはなりません」ということです。つまり、礼拝の説教のことで、聖霊の火を消さないように説教を軽んじてはならないと言うのです。説教者は、神様の御言葉を預かることでメッセージを告げます。そして、聞く者は、礼拝のメッセージを神の言葉として受け取ります。もし、説教者がメッセージを自分の知恵で語ろうとしたり、聞く者もメッセージを選り好みして聞こうとするなら、それは、パウロが指摘するように「預言を軽んじて」いるということになります。パウロは、この手紙の2章でも説教について話しています。
「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。(テサロニケの手紙2章13節)
パウロの言葉を、人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れた。だから、言葉はあなたがたの中で働いているというのです。パウロは説教者です。パウロは自分の言葉を、一人の人間として語りかけますが、しかし、神の言葉として聞かれることを願って語っています。聞いた人々が、パウロのメッセージを神の言葉として受け取ることで、言葉がその人の中で生きて働くからです。実際に、パウロの言葉を神の言葉として信じたことで、テサロニケに教会が生れました。言葉が生きていたからです。しかし、パウロは自分の言葉の力を誇りませんでした。パウロによって教会が設立されたのに、誇ることがなかったのです。それは神が働いてくださったからです。言葉によって人が救われる、そして教会が建てられる。その出来事は聖霊なる神が成してくださいます。聖霊が働かれると、神の言葉が成されていきます。説教者というのは、そのために用いられるのです。聞く者も、説教を神が自分に語られていることとして聞く時、言葉が自分の中で動きはじめます。「預言を軽んじてはいけない」とは、言うなれば、生きた炎のような神の御言葉を、人の知恵で消してはいけない。自分の中でも言葉が生きて働くようにしなさい。と、求めているのです。
3、「すべてのことを吟味して、良いものと悪いものを識別する」
これは、次の21-22節とも関係してきます。「すべてを吟味して、良いもの悪いものを識別しなさい」というのは、この手紙の流れからすると、二つの意味があると思います。一つは礼拝の説教について、もう一つは信仰生活全般について問われることです。
礼拝の説教については、パウロが手紙を書いた当時の教会には偽預言者と呼ばれる人が
「キリストの復活などなかった」とか「キリストは一人の人間に過ぎない」といった間違った教えを広めていた人達がいました。そういった異端の教えは今もあります。異端とまでいかなくても、私たちの中に、聖書の御言葉を昔話や他人事のように受け取っているところがあります。しかし、聖書の言葉は生きて私たち一人一人に問いかけています。私を知り、私に問いかける神の言葉です。もし、自分に都合のよい解釈をするのであれば、それは、悪いのもとして遠ざけなければならないものです。
そして、パウロはクリスチャンが社会で生きる者として、信仰生活全般についてしっかり吟味して識別することを指摘しています。特に今、コロナウイルスの影響によって、世界的な危機感が生活を覆っている時に、問われていることがあるのではないでしょうか。学校は休校、在宅でのテレワーク。外出を自粛する期間が続いて子どもも、大人もストレスが増しています。
4、どこに目を向けるのか
大切なことは「聖霊の火を消さないように」ということです。コロナウイルスの影響の中にあっても、聖霊の働きを消さないで、神様との繋がりの大切さを思わされます。しかし、それと反対に、神と人との繋がりを、何とか打ち消そうとするのがサタンの働きです。サタンは巧妙です。もっともらしい言葉や、心のスキをついて、人間を教会や神様から離そうとするのがサタンです。
『悪魔の格言』という本を書いた水谷潔先生が、サタンたちが新型コロナウイルスについて語っているという、ユニークな話をネットで投稿していました。その話は、二人のサタンの会話です。
「このコロナウイルスは、我々サタンにとっては追い風だ。一同に会して礼拝をしなくなった教会は困っていて嬉しいぞ。もしライブハウスみたいに、教会でクラスターが発生すれば地域との信頼は破たんだし、終息後も教会の活動に戻らない事を期待しちゃうな。集会の中止や再開の判断を巡って教会内の人間関係が険悪になることも期待できるな。しかし、ちょっとまてよ。過去の歴史を見ても、迫害や試練の中にある時こそ、教会は力を発揮してきたから、それは心配だ。礼拝中止を機会に、クリスチャンたちが礼拝の恵み、意味、目的に目覚めるとも限らない。コロナ終息後に、礼拝を義務感じゃなくて、喜んで命あふれる礼拝になってしまったらどうしよう。コロナウイルスは教会にとって、ピンチのようでチャンスになってしまう。サタンにとってはチャンスのようでピンチだ。それじゃあ、チャンスとピンチを分けるものはなんだろう? それは、クリスチャンたちが「どこに目を向けるか」だろうな。だから、サタンとしては神ではなく、目に見えるものにくぎ付けにしてやるんだ。例えば、感染が発生した時の責任リスク、礼拝人数の減少、献金の激減、問題処理に目を向けさせて、神を想定外においてもらおう。そのためには、サタンの得意技「目くらまし」だ。神の恵みが、まるで存在しないかのように目を眩ませるのだ。試練の時にこそ向けるべき、神への視線を、試練そのものへと向けさせるのだ」
という、二人のサタンの会話です。とても、ユニークでリアルで核心をついた会話だと思いました。核心というのはクリスチャンたちが「どこに目を向けるか」という箇所です。サタンの得意技「目くらまし」とは、わたしたちが本来、目を向けなければならない、神の臨在や愛や恵みが、まるで存在していないかのようにして、試練や問題そのものに目を向けてしまうことです。
わたし達は、神様を信じるようになってから、問題が一切無くなったということはないと思います。クリスチャンでも苦労はいつもついてまわります。しかし、問題が問題ではなく、起こった問題に目を向けてしまうのが問題です。神の変わらぬ愛、今もそして、地上の生涯が終わった後も続く永遠の命、それは、目には見えません。しかし、御言葉によって神の愛に心をよせる時「主が共にいてくださる」ということが分かってきます。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(ヨハネ福音書15章4節)。目には見えない神様の、「愛」というぶどうの木にとどまる時、主が共にいてくださり、「平安」という実を結ぶのです。
5、「良いものを大事にする」
今日の聖書箇所で、パウロは、「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」と言いました。「悪いものから遠ざかりなさい」とも言いました。問題に目を向けるのではなく、目には見えない、神の愛、永遠の命、ぶどうの木なるキリストを、良いものとして大事にしていきたいと思うのです。聖霊の火を消すことなく、コロナウイルスに、優しさと思いやりで対抗していきましょう。主イエス・キリストは、私たちを霊なる家族、神の家族とするために、ご自分も苦難に耐えて命を犠牲にしてくださいました。ご自分が十字架に架かられても、聖霊によって私たちが互いに愛することを祈っています。この愛に目を向けていきましょう。お祈りをします。