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主日共同の礼拝説教

神のものは神に


松本雅弘牧師
マタイによる福音書22章15―22節
2020年5月3日

Ⅰ. 憲法記念日と主イエスの言葉

今日は5月3日、憲法記念日です。今日、私たちに与えられている聖書の箇所を見ますと、まさに日本国憲法の精神と響き合う、主イエスの御言葉が記されています。それが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉です。教会と国家の問題、信仰者にとって国、国家権力者はどのような存在なのかを考える上でとても大切な聖句です。

Ⅱ. 周到に準備された罠

ここまで主イエスは続けざまに3つの譬えを語られました。聞かされた彼らは、主イエス殺害を腹に決めるのです。ただ民衆の手前すぐに実行できない。いかに合法的に行うにはどうしたらいいか、そうしたことを考えるために一旦、主イエスの前から姿を消すことにしたのです。その話し合いの結果、彼らは自分たちの代わりに弟子たちを遣わし、ヘロデ派の人たちと一緒にイエスのもとに遣わし、そこで考え抜かれた質問をすることにしたのです。
ところでヘロデ派は領主ヘロデと結びつくことで利益を得ていた人々です。親ローマの立場です。一方、ファリサイ派はその真逆の立場にありました。世俗的なヘロデ派に対し批判的で、言わば、水と油のような両者です。その彼らが結託して主イエスのところに行く。普通でしたらあり得ないような組み合わせです。ただそれだけ主イエスの存在が我慢ならなかったのでしょう。この際、目の前にいる共通の敵である、ナザレのイエスを葬り去ることで意見がまとまったのです。そのようにして、主イエスのところにやって来て、「ところで、どうお思いでしょうか、教えてください」、そう言って、毒を盛った杯を、主イエスの口元に差し出すように、用意してきた質問を投げかけたのです。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」。この質問のどこに毒があるのか、お判りでしょう。仮に「納めてよい」と答えれば、ローマの支配を認めることを意味し〈イエスは反ユダヤだ〉ということで、ファリサイ派をはじめ、ユダヤの民衆が黙っていません。逆に、「納めてはならない」と答えるならば、今までそれで生活が成り立っていた、既得権を持つヘロデ派の人々から猛反発を食らうのは目に見えています。さらに厄介なことに、ヘロデ派のバックにはローマ権力もありました。《Yes》、《No》のどちらに転んでも、大問題。ただでは済まされない。本当に考えに考え抜かれ、周到に準備された罠でした。

Ⅲ. 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」

主イエスは即座に「彼らの悪意」に気づき、そして「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい」と言われたのです。言われるがままにデナリオン銀貨をもって来ますと、「これは、だれの肖像と銘か」と問い返されたのです。そこには皇帝のものが刻まれていましたから、「皇帝のものです」と、そのままのことを伝えますと、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。これが練りに練った上、毒を盛り込んだ質問に対する主イエスの回答でした。
紀元4年ころ、ユダや地方に人頭税が導入されました。額は1デナリオンなのです。所得税とは別に収入に関係なく納めなければなりませんから貧しい人にとっては大変厳しい税金でした。そしてもう一つ大きな問題がありました。それはデナリオン貨幣に皇帝の顔が刻まれ、皇帝の刻印が押されていたのです。聖地旅行に行きました際、マサダの要塞を見学しました。紀元70年に、ローマ軍によってエルサレムが陥落した際、難を逃れたユダヤ人が立て籠り、最後まで抵抗した時の要塞です。そこに宮殿のようなものがあり部屋には壁画など、装飾が施されています。それが全て幾何学模様なのです。人物や動物を一切描いていない。「像を刻んではならない」というモーセの十戒を忠実に守っていたからです。それがユダヤ人の常識なのです。そう考えると貨幣に皇帝の像が刻まれてあることはユダヤ人の感覚からすれば決してあってはならないものだったに違いありません。こうしたことを考えてきますと、19節で、「税金に納めるお金を見せなさい」と言われ、すぐにデナリオン銀貨を持って来て主イエスの前に見せたことは、もしかしたら、特にファリサイ派に属する者たちにとってはうかつな行為だったかもしれません。現実には、その貨幣を使わなければならない。それをポケットに忍ばせて生きていかなければならない難しい事情がある。勿論、口では威勢のいいことを言ったでしょう。ローマ権力に抵抗する姿勢を見せていたことでしょう。でも実際はどうだったのか。ある意味で妥協して生きざるを得なかったでしょう。ですから、主イエスは、「偽善者よ」、と彼らに向かって、そう呼ばれたのではないかと思うのです。その彼らに向かって、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃったのです。「神のものは神に返せ」です。この答を聞いた彼らは返す言葉もない。逃げるように、主イエスをその場に残したまま、消えていなくなってしまいました。

Ⅳ. 神のものとして自分を神に返して生きるようにと召されている

山上の説教の中で主イエスは、「あなたがたは地の塩、世の光です」と教えてくださいました。確かに天国に国籍を持ち、そして地上では旅人であり、寄留者である私たちクリスチャンは、同時にこの世にあって地の塩、世の光です。社会の中で一市民として責任をもって生きる者でもあります。ここで主イエスは「皇帝」という言葉を使っていますが、現代に当てはめるならば、この世の権威、あるいは国家と呼んでもいいでしょう。私たちは、そうした社会のルールに従うことが求められます。ただ押さえておかなければならないことがあります。それは聖書によれば、皇帝も一人の人間、神さまに造られた被造物に過ぎない。その人間が造り出す国家も究極的なものではないのです。
3年ほど前、平和講演会が行われました。その時のテーマが「憲法」で、講演会では自民党の憲法改正草案を資料にしながら、改めて国家権力を縛る目的で制定された「憲法」そのものが、逆に国民の権利を制限する内容になっている。本末転倒ぶりを確認したことです。
「皇帝」という言葉で象徴されるこの世の権威と神の権威が、対等に並んでいるのでは決してない。ある人の言葉を使うならば、「皇帝のものは皇帝に返せ」という命令は、「神のものは神に返せ」という命令によって限界づけられているからです。ですから仮に、この世の権威が、神の意志に反するようなことになるならば、私たちは抵抗し、神さまのご意思がどこにあるかを求め、訴えなければならないことでしょう。
もう一つ、「神のものは神に返せ」という、この主イエスの言葉が心に響きます。
このこととの関連で、創世記1章の27節を見ますと、「神はご自分にかたどって人を創造された」と書かれています。言わば聖書は、「私たち一人ひとりが神の像が刻まれている」と教えるのです。とするならば、ここで主イエスが、「神のものは神に返しなさい」とおっしゃる意味は、「神の像が刻まれているあなた自身は、自分自身を神に返すようにして生きていきなさい」という私たちに向けられた強い勧めの言葉なのです。
コリントに宛てた手紙の中で使徒パウロ、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現わしなさい。」(Ⅰコリント6:19-20)「もう、あなたがたは神のもの、神の所有なのだ。元々、私のものであったあなたがたを、再び手に取り戻すために、キリストの命を代価にした。だからもう、あなたがたはあなたのものではない。私のものなのだ。だからこれからは、あなたがたの体、あなたがたの存在をかけて、私の栄光を現わすように生きていきなさい。それが、あなたがたクリスチャンの生きる目的、生きる使命なのだ」と教えているのです。しかもパウロは「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(エフェソ1:13)と語ります。私たちの体にはキリストの霊である聖霊の「焼き印」が押されている。聖霊ブランド、これは凄いことです。「神のものは神に返しなさい」。神に属する者として、自らを神さまにお返しする献身の歩みを続けていきたいと願います。お祈りします。