カテゴリー
主日共同の礼拝説教

聖書読みの聖書知らず

松本雅弘牧師
マタイによる福音書22章23―33節
2020年5月10日

Ⅰ.「復活の時には、めとることも嫁ぐこともない」?

主イエスは、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともない」と明確に述べていますが、これは私たちにとって意外と切実な言葉なのではないかと思うのです。天国に行ったら、今の妻とのつながりがなくなってしまうのだろうか。「天使のようになる」とはどういうことか。夫婦、親子、友達との絆はいつまでも続く、決して切れないものだと言う代わりに、主イエスは「そうではない」とおっしゃっているように聞こえるからです。

Ⅱ.あらすじ

ファリサイ派、そしてヘロデ派に代わって主イエスの前に現れたのがサドカイ派の人々でした。彼らサドカイ派は、ファリサイ派同様にユダヤ人の中の一つのグループでした。サドカイ派の多くは貴族出身で、また祭司も多くいました。保守的で、知識人が多かったようです。またサドカイ派の信仰理解の特徴は「モーセ五書」と呼ばれる旧約聖書の最初の5つの書を重んじる立場だったようです。この点、当時のファリサイ派や律法学者たちと明らかに立場が違います。そしてサドカイ派とファリサイ派の両陣営がぶつかる時の、中心テーマの一つが人は死んだらどうなるのか、つまり復活たったのです。サドカイ派は復活を否定したのですが、理由はモーセ五書の中に死者の復活という教えが明確に述べられていないと理解したからです。そう言われて見ますと、創世記もそうですが、死とは人の存在が消えてしまうこと、滅びるようにして土に帰ることだと書かれています。サドカイ派の人々は、この事実を見据えた上で、塵に帰った人間がなおも生き続けることなど理屈に合わないと結論付けたのです。しかも彼らは貴族階級。今の生活に満足していました。「人生、死んだら、それでお終い」と考えた方が都合もよかったのかもしれません。
その彼らサドカイ派の人々がイエスに近寄ってきて質問してきたのです。「さて、わたしたちのところに、7人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに7人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は7人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです」。サドカイ派は復活を認めませんが仮に復活があるとした場合、7人の夫と1人の妻が甦ることになるけれども、彼女は誰の妻として甦ることになるのか、と主イエスに質問したのです。

Ⅲ.聖書読みの聖書知らず

ところで、このやり取りは主イエスにとっての受難週の場面です。ある種、非常に緊迫した場面だったのです。ところがこの時の彼らサドカイ派はほぼ興味本位で主イエスに近づいたのではないかと思います。今、この時、訊かなくてもいいような質問を主イエスに投げかけている。ある牧師は「知的遊戯に過ぎない」と語っていましたが、まさに自分たちの知的関心を満たすため、十字架への道行きを歩み始めようとしていた主イエスを利用したのでしょうか。勿論、「人間は死んだ後どうなるのか/復活はあるのかないのか」という問いは確かに大切なものです。でもこの時のサドカイ派の人々にとっては、それに対する主イエスの答えによって、自分が変わらなければならない、変わりたいというような切実さは全くなかったと想像されるのです。既に彼らは貴族として、祭司として特権がありました。生活も安定していた。いやそれを通り越してとても豊かなのです。そうした彼らが十字架への道行きにあった、主イエスに向かって呑気な質問をしているのです。
ただ、ここでひと際、光るものがあります。それは主イエスの誠実さです。彼らに対して、主は何と誠実な対応をしておられるのか。主は彼らと向き合って時間をお使いになる。そうした上で、彼らの魂の一番深いところに、彼らにとっての一番必要な御言葉をお語りになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言われたのです。
もう数日したら十字架にかけられる。切羽つまっていました。時間もなかったかもしれない。こうした連中を相手に時間を使うのは無駄、と言って退けても構わなかったでしょう。でも主イエスは、そうした彼らと向き合うのです。何故?「彼らも、神に返すべき、神のもの」だからです。

 

Ⅳ.復活を信じている者の喜び

30節からの箇所をご覧ください。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか」。復活を前提に語っておられます。そうした上で、32節。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われたのです。当然ですがアブラハムもイサクもヤコブも、モーセの時代にはすでに死んでいました。ところが、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形で語られています。
学生時代、キリスト者学生の聖書の読み方に関する学び会に出席しました。4回ほどの学びで、最後に、「このような読み方を、どこで学びましたか」とお聞きしたのです。たった4回で終わってしまうのがもったいなくて、どのような学校で、あるいはどのような参考書を用いて学んだのか、とそうした事を聞きたかったのです。ところが先生からの答えは意外なものでした。「神さまから教えていただきました」と。信仰のリアリティを感じさせられた一言でした!そう言えば、神さまそっちのけで聖書研究にふけるユダヤ人に向かって、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところに来ようとしない」(ヨハネ5:39-40)と言われました。聖書を読む時、神の言葉である聖書を通し、神が私の人生に介入される、出来事が起こることなど最初から考えてもいない。生ける神さま、不在なのです。全く期待していないのです。
サドカイ派の人々もそうだったのではないでしょうか。期待していないのです。その彼らに対して主は、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とおっしゃったのです。「天使のようになる」とは、以前の聖書では「天にいる御使いのようなものである」と訳されていましたが、「天にいる」、神の懐にある、という意味です。「神の懐に生きる存在となる」ということです。
ここで主イエスは、復活がどういう状態か、多くをお語りになりません。ただ私たちは、夫婦、親子、友達との絆はいつまでも決して切れないものであって欲しいと願うのです。当然でしょう。それが一番の幸いだと思いますから…。でも主イエスはそれに勝る、もっともっと素晴らしい恵み、今の状態を完全に超えたよいものとして、私たちは復活する。それが、「天使のようになる/天にいる御使いのようなものとなる」ということ、神の懐に抱かれるような恵みの中にすっぽり覆われて生きる者として甦るという約束です。
これまで主イエスは、一度も、「これが真理である、これを信じなさい」とは言われませんでした。サドカイ派が求めるような答えをお語りにならなかった。その代わりに、「わたしが真理だ」とおっしゃった。そして「わたしを信じなさい」と言われたのです。ですから、私たちがすることは、この主イエスを信頼すること。主イエスを信頼するとは、そのお方がお語りになったことを信じることです。
死後のことも安心して、このお方に委ねればよい。いや、今、このコロナの危険の中にあっても、私たちの思いを超えて、生きて働いておられる。そしていつか、振り返った時に、神さまの深いみ旨を知らされ、神をほめたたえる時が必ずやって来る。
信仰の目を開いていただき、共におられる主が、生ける主であり、生きて働いておられることを見せていただきながら、この1週間、主と共に歩む私たちでありたいと願います。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だからです。お祈りします。