松本雅弘牧師
マタイによる福音書22章34―40節
2020年5月17日
Ⅰ.「7日間ブックカバーチャレンジ」
フェイスブックを通じ「7日間ブックカバーチャレンジ」という招待がきました。読書文化普及に貢献するチャレンジで、好きな本を1日1冊7日間投稿する。選んだ本の1つがマロウ先生の『恵みの契約』でした。忘れられない一冊で、多くのことを学ばせていただきました。何故、このような話をしたかと言いますと、今日の箇所と響き合う内容だからです。
Ⅱ.主イエスへのチャレンジ
主イエスのところに次にやって来たのが律法の専門家でした。その彼らが「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねたのです。当時「何々しなさい」という命令の掟が248、「何々してはならない」という禁止命令の掟が365、合計613の掟が存在していたと言われています。その613にも上る細則を記憶し個々のケースに当てはめる働きをしていましたが、ただ一方でそれが正しく出来ているかどうかを判断する基準はあいまいで、常に論争があったようです。こうした事情からして彼らが投げかけた問題は、自分たちでも解決できない、難問中の難問だったのではないか。ある人は、公衆の面前で主イエスに恥をかかせる目的だったのではないか、と解説していました。
Ⅲ.試みる意図はどこにあったのか
ところで、ここに「試みる」という言葉が出て来ます。ローマへの税金を巡る議論の中で、主イエスが「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか」と言われた時の言葉です。マタイ4章の悪魔の誘惑の時に出てくる「誘惑する」という言葉です。つまりこの時、彼ら律法学者たちが準備した問いを、福音書を書いたマタイは悪魔の問いだと理解していたということでしょう。主イエスを陥れる、本当に悪い方向に誘う毒の入った質問です。ただ、そう言われて、改めてこの質問、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」を考えると、皆さんはどうお感じになるでしょう。あまり毒気が見当たらないように思うのです。
ローマに納める税金に関する問いかけ、復活を巡る質問もそうです。主の答え次第では大変な事態を招きかねない。ところが今回準備された質問のどこに主イエスをひっかける罠が隠されているのでしょうか。そうしたことを、まず考えさせられるのです。ただ、こうした問題意識を持ちながら、この後、読み進めてまいりますと、42節で今度は主イエスの方から、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」と質問しておられるのです。
ファリサイ派の人々は当時の英知を代表していた人々でしょう。その彼らが結集し考え出した質問は実は肝心なことが抜けていた。メシア不在なのです。聖書が指し示すメシアは誰なのかを問わずに、一生懸命、宗教生活を営んでいる。私たちが婚宴の席に招かれるために、礼服が必要なのです。メシアが必要なのです。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」と主イエスは問われる。私たちが招かれるために、行うべき、守るべき掟は何かという世界ではないのです。私たちは掟を行うことで婚宴に招かれるのではありません。神の御前に出る時、私たちの側で用意できる礼服は一着もない。ですから使徒パウロは「主イエス・キリストを着なさい」と語った。キリストが礼服なのです。父なる神が自らの手で用意し装わせてくださる礼服、それはメシア・イエス以外におられない。
公生涯の最初、ガリラヤに戻られ宣教を開始され、ナザレでの「就任説教」で、「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれた」とお語りになったのです。当時のユダヤ教では貧しい者は神の国に招かれざる者でした。逆に裕福さこそが神からの祝福のしるしです。しかし主イエスは、自分は貧しい者に神の国の訪れを知らせるためにやって来たと宣言なさった。そしてその宣言通りに、これまで歩んでこられたのです。少し前のマタイ福音書21章31節で、非難するファリサイ派の人々に対して主は、「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」とおっしゃるのです。まさに町の四つ辻に立って、「見かけた者はだれでも、もう片っ端から連れて来なさい」と行って招き、その招きに応じてやってきたすべての人々に、「主イエスを着なさい」と救いを用意してくださる。今日の箇所に登場するファリサイ派の律法学者たちの言動には、その肝心要の「礼服」が見えて来ないのです。くどいようですが、律法を守ったので神の民になったのではない。一方的な赦し、無条件の愛があった、そのようにして救われた神の民が、次に神に愛されている者として生きるというのはこうした生き方ですよ、と与えられたのが、律法であり掟なのです。
Ⅳ.神と向き合い、隣人と向き合い、自分と向き合う
今日の聖書の箇所に戻りますが、試みようとしていた質問者たちの思いを超えて、ここで主イエスは、神を愛し、隣人を愛しなさい、と本当に大事なことを語っておられます。そして、この2つは別々ではなく2つで1つの掟なのです。そしてもう一つ、心に留めたい言葉があります。39節をもう一度見ていただきたいのですが、「隣人を愛しなさい」というところに、「自分のように」という言葉が挿入されています。
私たちが、そのありようのままに神に愛され、受け入れられ、喜ばれていることを少しずつ味わう中で、私自身をそのままの姿で受け入れることができるようになってくる。そして同様に隣人のことを神が大事にしておられることを知る中で、私自身も隣人を愛するものとして成長させられていくのです。
先ほど主イエスを非難するファリサイ派の人々に向かって、「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」とおっしゃった言葉に触れました。実は福音書を書いたマタイは正真正銘の徴税人でした。マタイはこの福音書9章で主イエスとの出会いを記録に残しています。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」。これだけなのです。仕事を終え帰宅し、布団に横になりながら、自分の歩みを反省している姿を御覧になったのではなく、収税所に座って仕事をしている最中のマタイを見て、「わたしに従いなさい」と言われ、自分はすぐに立ち上がって付いて行った。マタイは自分の召命の証しをそのように記すのです。勿論、マタイの側にもそれなりの理由があったかもしれません。自分の仕事に疑問を持ち、お金を騙し取る度に良心に痛みがあったかもしれない。徴税人であるが故に社会から疎外され淋しさを味わいながら生きていたのでしょう。その彼の前に突然現れた、あの人だけは、これまでの誰とも違う、全く違う眼差しで自分を見てくれた。そうした主イエスの眼差し、そして毅然とした態度が、マタイの心を虜にしてしまったのでしょう。そして立ち上がって従ったということを書いた直後、マタイは1つのエピソードを挟み込むようにして自分の物語を締めくくろうとする。その言葉は、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。主イエスが来られたのが、どうしようもないこの者を招くためだった。この私を呼び出すために来てくださった。この主イエスの言葉とお姿をしっかり記録するため、自分は今こうして福音書を書いている。そしてマタイが書いたこの福音書は系図から書き始めているのは有名なことです。
一般にユダヤの系図は男性の名前だけで綴られるのが普通です。でもマタイのには女性の名前が出てくる。4人も出て来る。しかも「いわくつきの女性」ばかりです。それだけではありません。南ユダの悪王たちが名を連ねています。「救い主イエスさまの系図だけは清くあって欲しい」というファリサイ派的な期待を裏切る事実です。でもそれが神の愛なのです。
マタイは自らの人生とイエスの系図を重ね、罪の暗闇の世界のど真ん中に降りて来てくださったナザレのイエスという男が、収税所で罪深い仕事をしている、その罪の現場のど真ん中に現れ、「わたしに従いなさい」と招き救出してくださった。礼服を着せてくださった。そして本当に不思議なのだが、その招きに従って立ち上がったのが自分なのだ!その時の出会い、その出会いの激しさに心打たれながらマタイは神を愛し、神に愛されている自分を受け入れ、そして少しでもこの愛を隣人に伝えようと熱心に福音書を書くマタイに変えられた。神に愛されたので、私たちは神に、世界に、自分に向き合う者とされたのです。
お祈りいたします。