カテゴリー
主日共同の礼拝説教

みこころを成してくださる神

和田一郎副牧師
創世記1章31節/1テサロニケ5章23-24節
2020年5月24日

1、はじめに

最近、外出を自粛していることもあって、家でテレビを見る機会が増えました。高齢出産をする老夫婦のドラマを見ながら共感することがありました。そして、どうして神様は、私たち夫婦をもっと早く出会わせ、子どもを授けてくださらなかったのだろうか、このような人生を通して、私に示されている神様のみこころには、どんな意味があるのだろうかなどと思い巡らすことがあります。皆さんはどうでしょう。自分自身に示されている、神様のみこころについて考えることはあるでしょうか。

2、神のみこころ

今日は、神様の「みこころ」というものに目を向けたいと思いました。というのは、今日のテサロニケの信徒への手紙の箇所は、テサロニケの人々のために祈っている所です。23節は「してくださいますように」という言葉が繰り返されていて、一つはキリスト者として「聖なる者としてくださいますように」、そして、キリストの再臨の時、私たちを「非のうちどころのないものとしてくださいますように」という願いが込められています。しかし、この願いというのは人間の立場からの願望です。もしかしたら自分の願いと、神様のみこころとは違うところにあるのではないかと思う時もあるのです。たとえば、イエス様はゲッセマネの祈りの中でおっしゃいました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイによる福音書26章39節)と祈りました。
私たちの願いは、実に現実的なものを求めますが、神様のみこころは究極的です。私たちは目の前にある問題に対して「はい」とか「いいえ」の答えを求めますが、神様のみこころは、その奥にあります。私はいつも祈る時に思うのです。神のみこころを、もっとはっきり具体的に教えて欲しい。ですが、それは神様の領域です。被造物に過ぎない人間の知恵と力では、神のみこころを直接知ることはできません。ただ、聖書に啓示されている神の御言葉から、みこころを理解するしかないのです。

3、平和の神

今日の聖書箇所で、パウロは神様のことを「平和の神」といっています。私たちの信じる神様は、平和という性質をもった神様です。聖書に書かれている「平和」という言葉は、争いがない状態のことだけではありません。むしろ、心の平安や神様と人との関係が良い状態であることを表しています。イエス様は「あなたがたは わたしによって平和を得る」と言われました。(ヨハネによる福音書 16章33節)。つまり、イエス・キリストによって、神様との良い関係、神様との和解を得られるということです。決して人間による力や、自分の努力でなされることではなくて、究極的な平和はキリストによって成されるものです。
その、平和の神御自身が23節で、テサロニケの信徒たちを「聖なる者としてくださいますように」とパウロは祈っています。「聖なる者となる」というのは、神の性質である聖さに、少しづつ近づいていく、似ていくということです。パウロはエフェソの信徒への手紙で、次のような言葉を記しています。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソの信徒への手紙1章4節)。つまり、私たちが生れるずっと以前から、イエス様は私たちを「聖なる者」とすることを願っていた。その理由は「神はわたしたちを愛して」いたと書かれているのです。わたしたちが生れる前から、私たちを愛しておられた神のみこころには愛が盛り込まれていたのです。

4、イエス・キリストの来られるとき

テサロニケの手紙にもどります。23節で私たちが聖なる者とされ、非のうちどころのない者とされるのは、「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき」だということです。それは、イエス様が十字架につけられて死に、復活し、天に昇られましたが、いつかもう一度この世に来られて、しかも、全ての者を裁いて、この世を終わらせて、神の国をもたらすという素晴らしい未来がイエス・キリストの再臨の時です。その時には生きている者も、先に死んだ者も、聖なる者とされ、非のうちどころのない者とされるのです。
それは、そもそも天地創造の中で神様が人間を「神のかたち」に造られたのですが、その「人間本来の姿」にほかなりません。神様はその人間の姿を見て「見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節)とおっしゃいました。残念ながら人は罪を犯してしまう者となっています。しかし、堕落したその罪にまみれた姿から、時間をかけて自分らしい、人間本来の姿にもどっていく、少しづつ人生経験を重ねながら聖なる者とされ、やがて、非のうちどころのない者とされることが、神様のみこころです。いつか私たちに訪れるキリスト再臨の時には、大いなる喜びがあります。その希望を祈っているわけです。この希望は、今を生きるわたしたちクリスチャンすべてが持つ希望でもあるのです。コロナウィルスの被害と不安は目の前に現実としてあるのですが、クリスチャンとしての究極の希望が揺らぐことはありません。

5、忘れ物

先週のある日、私は一人の方の葬儀に参列しました。私のいとこにあたる男性のHさんの葬儀に行きました。Hさんは63歳で亡くなる一月ほど前に横浜の教会で洗礼を受けていました。私はその洗礼式に立ち合いました。Hさんは長い闘病生活を送っていたのです。Hさんのお父さんは牧師でした。開拓伝道を始めた頃は、狭い自宅で礼拝を始めたので、小さかったHさんは、日曜日になると自分たちの部屋で礼拝や集会をするのが嫌だったようです。父への反発もあったのだと思いますが、信仰をもつことはありませんでした。成人してからも外資系の会社でキャリアを重ねて、社会的な立場も、経済的にも恵まれた中で生きていました。ですからHさんにとって両親が持っていた聖書を基盤とする信仰は必要のないもののようでした。しかし、重い病気にかかられて長い闘病生活を過ごされていました。ある日、気になって連絡してみると「教会に行きはじめている」「洗礼のことを考えている」と言っていました。あのHさんが洗礼を考えていると聞いて、少し驚く思いがありました。その後「洗礼の日程が決まった」と知らされました。コロナウィルスの影響がある中で、どこか急いでいるような感じを受けました。私も参列し限られた人達が見守る中で洗礼式が行われました。それから、約一か月後に天に召されました。
洗礼を受けた日にHさんが言ったのです。「今日、私は忘れ物を取りにきたように思います」。神様はHさんの人生を、どのようなみこころで導いてこられたのだろうと考えました。神様のみこころは、キリストによって平和を得ることを望んでおられるはずです。もっと早くそうされても良かったじゃないかとも思うわけです。しかし、聖なる者となるまでには時間がかかるものです。何一つ欠けることのない完成した者となるまでには、キリストの再臨の時を待つしかありませんが、それまでのあいだも、時間をかけて私たちは成長させられていくものです。神のかたちへと近づいていく、自分らしい本来の姿へと成されていく。どれだけの時間がかかるのか、どんなタイミングなのか、その神のみこころを知ることはできません。Hさんは、両親と兄弟の中で唯一信仰をもたずにいた人でした。数年前に、牧師であるお父さんとお母さん、そして弟さんの家族三人が天に召されて、Hさんは、その教会の葬儀で見送りました。葬儀をきっかけに、少しづつ教会へと通い始めたと聞きます。家族三人が過ごされた歩みを振り返って、「自分は何かを置いて来た」忘れ物があったことに気付かされたのが、この時だったのかも知れません。平和の神は、人の心を操り人形のように支配される方ではありません。人に自由な意思を与えてくださいました。私たちが自分自身の自由な意志によって、自分の生き方を選び取る自由です。自分の意思によって信仰を選びとる、そのことを通して神のみこころを映し出されたのです。何かが足りない、何かを忘れている、その何かに気付いて選び取る。Hさんの歩みは今も証しとして、残された家族や多くの人の心に残っていると思います。
わたしはHさんの出来事を通して思うのは、本人もやり残したことがあるかも知れませんが、この世の歩みを全うしたのではないかと感じました。神様の、みこころが成されたと思います。平和の神ご自身が、Hさんを全く聖なる者としてくださる。そして、キリストが来られる時、非のうちどころのない神の似姿としてくださると思えるのです。それらを全て見て「見よ、それは極めてよかった」とされたのです。
今日の24節の御言葉は、そのことを確信させてくださいます。「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」。私たちを招いてくださる方は、生きた真実の神様です。みこころは、必ずそのとおりにしてくださいます。このみこころに信頼して、わたしたちも聖なる者へと、一歩一歩、時間をかけて歩んでいきましょう。お祈りしましょう。