松本雅弘牧師
マタイによる福音書22章41節―46節
2020年6月7日
Ⅰ.「あなたたちはメシアのことをどう思うか」
今日は本来ならば洗礼式が行われる礼拝です。しかしコロナの影響で延期となってしまいました。洗礼式の時になされる質問の一つに「あなたは、罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主、主と信じ、洗礼を受けることを心から願いますか」という問いかけがあります。これは今日、主イエスがなさった問いかけ、「あなたたちはメシアのことをどう思うか」という問いかけと共通したものです。
Ⅱ.油注がれた者への待望
旧約の時代、「油注がれた者」は特別な職務祭司、預言者、王のいずれかに限られていて、任職の際、その人の頭に油を注がれたのです。こうした視点をもって旧約聖書を読み返しますと不思議な言葉に出あいます。イザヤ書45章1節の「主が油注がれた人キュロス」という表現です。キュロスとはペルシャ帝国の王です。
イザヤは異教徒であったキュロスが油注がれた者、メシアだと語っているのです。理由は彼がユダヤ人たちをバビロン捕囚から救い出すのに用いられた神の器だったからです。彼は非常に研究熱心で、「覇権を掌握した大国がなぜ滅ぶのか」という問題意識をもって歴史を調べました。その結果「被征服地の神々を怒らせたからだ」との結論に至ります。そこでキュロスはバビロンに捕囚にされたユダヤ人たちを解放しエルサレムに帰還させ、神殿を再建させ、彼らが信じる主なる神にペルシャ帝国の繁栄を祈ってもらうことをさせるのです。
確かに預言者イザヤはキュロスを「油注がれた人」と呼びましたが、所詮彼は世俗の王です。いざとなれば権力や武力に訴えて物事を進めるに違いない。本当の意味で自分たちイスラエルを信仰の祝福へとは導いてくれない。そうしたことに気づかされていく中、キュロスに代わる、真のメシアへの待望がユダヤ人の間に起こっていったと言われます。一方、主イエスの時代はローマ帝国による支配と抑圧です。ユダヤ人の指導者層の一部、先日登場したサドカイ派などはそのローマと結託し同胞ユダヤ人から搾取していたのです。
ですから、いつかダビデに代わるメシアが現れ、エルサレムに再び繁栄を取り戻したい。いや、メシアは王・祭司・預言者の三職を兼務し、自分たちユダヤ人のために神に執り成し、自分たちを神の民として整えるために御言葉で養ってくれるような、真の王なるメシア・キリストを待望していたわけなのです。そうした背景がありました。
Ⅲ.ダビデ王を超えるお方
さて、ここ数週間、主イエスとユダヤ人指導者たちと論争の箇所を読んでまいりました。問いかけられた質問に対して、主イエスご自身も繰り返し問い返す。すると今度は考えに考え抜かれ質問を準備し主イエスを問い詰める人々が登場する。そして最後は愛についての質問でした。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。
これに対して主イエスは、彼らの思いを超えて本当に大切な神の愛を説かれたのです。私たちはあるがままで神に愛されている。あるがままで神に愛され、喜ばれていることを知る中で、私自身をそのままの姿で受け入れることができるようになってくる。そして同様に神が隣人のことを大事にしておられることを知る中、隣人を愛する者として変えられていく。愛するよりほかに生きる道はないのだと説かれ、その延長線上、究極にある問いが、今日の、「あなたにとってメシア・キリストはだれか」という問いでした。
するとファリサイ派の人々は即座に「ダビデの子です」と答えました。これは当時の人々のメシア信仰の中身を表明する言葉でしょう。「来るべきメシアはダビデの子孫より生まれる」と信じていたのです。ところがこれに対して主イエスは、ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか、と問題提起をされたのです。当時の人々はダビデ王を理想化していました。その結果、ダビデを超える存在を考えることができなかった。主イエスが問題にされたのは、そこだった。
「ファリサイ派の先生方、あなたがたは、メシアを『ダビデの子』と呼ぶことによって、来るべきそのお方の栄光を狭めてしまってはいませんか。『ダビデの子』として限界づけてはいませんか。そのお方は、あなたがたの想像をはるかに超える仕方で来られるのだ」、とおっしゃったのです。本当に皮肉です!そのお方こそ、彼らの目の前にいた、彼らが殺そうと謀っていた、主イエス、そのお方だったのです。
Ⅳ.「金冠のキリスト」
今日は旧約にイザヤ書第53章を選びました。ユダヤの人々は、「メシアは、あのダビデ王、あの栄光の時代が再びやってくる」と待ち望みました。それが当時のユダヤ人たちが考える、最高のメシア・キリスト像でした。ところが実際のメシアはイザヤ53章に出てくるようなお姿で来られた。ちっともメシアらしくない。王様らしくない。「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。…」。
ですから、ここに出てくるファリサイ派の人々もそうでした、メシアとして来られたイエスを「軽蔑し、無視し」たのです。ただ、そうしたイエスさまでしたが、それでも一度だけは王様らしい姿があったかもしれません。
この数日前、主イエスは正にメシア、王様として人々の大歓声の中進んでいかれました。エルサレム入城の場面です。でも、そんな時でさえ主イエスはロバに乗っておられたのです。普通かっこいい軍馬に乗り手に剣とかを持つものです。戦いに強いのがメシアである王様でしょう。でも主イエスはロバに乗る、「戦わない王様」なのです。ロバの仕事って何でしょう。いつも重たい荷物を担いで動くことです。主イエスの王様としての務めも、ロバと同じでした。
私は説教の準備をしながら韓国のカトリックの詩人、金芝河(キムジハ)の「金冠のキリスト」という戯曲を思い出しました。こんなストーリーです。
ある会社の社長が多額の寄付を集め街の広場の真ん中に、黄金の冠をかぶった王の姿をした立派なイエス像を、セメントで作るのです。仲間の金持ちや町の役人が毎日のように像の前にひざまずき、「イエス様、あなたは王の王です。教会の為に多くの寄付をしますからどうか私たちを犯罪者や敵から守り、私たちの商売が益々繁栄しますように」と祈りました。夜になるとイエス像のもとに、寒さに震えながら、娼婦、物乞い、そしてハンセン病患者の3人が肩を寄せ合いながら座り、互いに支え合っている。そうしている内に、突然イエス像の口から嘆きの言葉が聞こえてきます。「どうか私を捕虜の身から自由にして、解き放して下さい」。驚いた3人が、「どうすればあなたを自由にすることができますか」と訊くと、イエス像のイエスが答えるのです。
「あなたたちの貧しさと柔和さ、温かい心、不正への怒りは、私を自由にできます。あなたたちの手によって私を解き放ち、あなたと共に歩み、苦しみ、共に立ち上がっていきたい」。
3人は、このイエスの呼びかけに答えて立ち上がります。そしてシスターたちや町の貧しい人たちも加わって、コンクリートを打ち壊そうとするのですが、そこに金持ちや機動隊がやって来て、彼らは逮捕されてしまうと言う話です。
この戯曲は当時韓国の独裁政権と癒着関係のあった一部の教会が、人の苦しみに目を向けず、動こうとせず、逆に人々を抑圧する権力の側に立っていた現実を暴き、教会自体がイエスをコンクリでかため、金の冠をかぶせ、何もできず何も言えない状態にしていることへの痛烈な批判を込めた戯曲です。
福音書に出てくるお姿を見る時、主イエスは人間の中で最も貧しく低い者となられました。多くの苦しみを受けられました。ロバの子に乗って入城し、その後、十字架で殺されていった。「金冠のキリスト」の対極にある「苦難の僕キリスト」です。主イエスは私たちに真の平和をもたらすために来られたと教えます。聖書で平和とは「満ち足りた状態・充足の状態」を意味します。自分と言う小さな範囲が平和であっても、充足の状態ではない。自分の小さな殻の中に留まるのではなく、隣人に開かれた者となるために、主イエスの御言葉の大胆さに揺さぶられる経験が本当に大事なのだと思わされる。主イエスの口からでる神の言葉、いや神の言葉そのものとして、私たちの前に立たれる主イエスから、「あなたはイエスを救い主、主と信じ、洗礼を受けることを心から願いますか」。その問いかけに答えて洗礼を受けた私たちは、告白した通りに生きる者とさせていただきたい。そのお方を救い主として、人生を導く主として従い続けていく者でありたいと願います。お祈りします。